【おススメ映画】オリヴァー・ストーン監督からの「挑戦状」――ドキュメンタリー映画『未来への警鐘 原発を問う NUCLEAR NOW』に隠されたものとは何か?
映像研究のため、映画『未来への警鐘 原発を問う NUCLEAR NOW』を劇場鑑賞した。
圧倒的な構成力と映像美であった。
そして頭を後ろから〝がつーんと〟殴られたようなショックを受けた。
オリヴァー・ストーン監督は78歳。そうは思えないほどの行動力で、世界各地の原子力発電所や研究機関を訪れ、科学者・技術者・政策担当者など、さまざまな立場の人々にインタビューを重ねていた。そのパワーは見習うべきだ。
インタビュアーとしても優れた一面を見せてくれた。たとえば、スウェーデンの原子力施設での取材では、再生可能エネルギーの限界と原子力の安定供給性について語る技術者の姿が印象的だった。また、アメリカのエネルギー政策担当者との対話では、トランプ政権下でのパリ協定離脱とその影響が語られ、エネルギー政策の政治的側面が浮き彫りになった。
福島原発の悲劇については、構造欠陥という技術的な問題に還元する語りが強調されており、制度史的な視点からは疑問が残る。ドイツが反原発に舵を切った決定的契機となった福島事故への言及が薄く、語りのバランスに偏りが感じられた。さらに、ウラン鉱山における残土処理の問題や、原発施設が安全保障上のリスクを孕む点(たとえばドローンによる上空侵入など)にはほとんど触れられないなど、原子力を過信しすぎているのではないかと思う点もあった。
しかし、それ以上に映像から伝わる「熱量」が違う。「映像作品は熱量が勝負だ」と改めて感じさせられた。監督自身が現地に赴き、カメラを回し、語りかける姿勢は、単なる情報伝達を超えて、観客の感情に直接訴えかけてくる。映像の説得力とは、論理の整合性だけではなく、身体性と情熱の伝播によって成立するのだと痛感した。これこそ、まさしく映像人類学の境地だ。
映画監督らしく、本筋とは到底関係ないところに映画のワンシーンを挿入する手法も、映像研究的に興味深いものだった。とりわけ印象的だったのは、『スタンド・バイ・ミー』の線路を歩く少年たちのシーン。原子力の未来を語る文脈の中で、人類が「原子力を捨てようとしている」という方向性が、少年たちの「未来へ向かう歩み」と「危うさ」の象徴として見事に機能していた。他にも、キュリー夫妻の研究風景のモノクロ映像や、宇宙の誕生を描いたCGシーンなど、一見、本筋とは関係ないように思える映像のインサートが巧みだった。映画『博士の異常な愛情(Dr. Strangelove)』の核爆発シーンも挿入されており、冷戦期の核恐怖と現代の原子力議論を重ね合わせる象徴的な引用として機能していた。
「この映画のシーンは、どういう意味で挿入されたのか」を考えながら見るのも一興だ。
この作品は、原発賛否の議論に還元されるべきではない。
むしろ、「映像が何を語り、何を語らないか」「語りの構造がどのように構成されているか」を問うことが、映像人類学的な研究において重要である。映画の終盤でも、ナレーションで彼は言っている。「無知と無関心こそが最大の敵だ(Ignorance and apathy are the greatest enemies)」。これは、原子力に対する恐怖や拒絶が、情報不足や偏見によって形成されているという監督の問題提起である。原発を「クリーンエネルギー」として推進する語りの背後にある政治的・経済的構造、そして科学技術への過信と倫理的問いを、映像の中から読み解く必要がある。
最初に私がなぜ〝がつーんと〟殴られたようなショックを受けたと言ったか、この映画を見てそこ答えがわからない方は、「ぬるま湯に浸かっている」と言いたい。
この映画は、オリヴァー・ストーン監督からの「挑戦状」だからだ。その真意や隠されていることを見抜けないようでは、これからの激動のVUCAの時代は生き抜いてはいけない。
原発に賛成か、反対か。
原子力と核戦争を同じ土壌で考えてしまっていないか。
環境破壊と原子力の天秤のバランスをどう取るべきか。
オリヴァー・ストーン監督が紡ぎ出す映像的手法と語りは、それらの答えを探すヒントになるだろう。
ぜひご覧になって、老獪な戦略に翻弄されることを楽しみ、「考えて」みてほしい。
「TourismGuideToJapan」HPより