【今日のタブチ】「やっぱりな…」クマ被害・米価・松本人志氏ー「がっかりの法則」の先に何を見るべきか 

今日の新聞を読んでいて、「やっぱりな…」と感じた記事が三つもあった。どれも、驚きよりも予測が的中したことへの虚しさが先に立つ。そんな感覚を抱えながら、ふと「がっかりの法則」なるものがあるのではないかと思った。
一つ目は、北海道のクマ被害。射殺された親子グマの母親のDNAを鑑定したところ、男性を襲ったクマだと断定されたという。科学的な根拠が示されたことで、射殺という判断が「正しかった」とされる構図。しかし、命を奪うという選択に対して「仕方ない」と思ってしまう社会の鈍感さに、がっかりする。人間の生活圏と野生動物の境界が曖昧になりつつある今、こうした事件は今後も繰り返されるだろうという予感が、的中してしまったことへの失望だ。
二つ目は、備蓄米を放出しても米価が下がらないという報道。政府の介入が機能しないことが「やっぱりな…」と感じさせる。市場原理が生活者の期待を裏切る瞬間だ。備蓄米の放出という「対策」が、実質的には価格維持のためのパフォーマンスに過ぎないのではないか。制度疲労の象徴を見てしまったことへのがっかり……単純な需給の話ではなく、もっと複雑な事情が絡んでいるのだろう。けれど、そうした事情が説明されることは少なく、結果だけが淡々と伝えられる。「やっぱりな…」と感じるのは、期待していた変化が起こらないことへの落胆というより、何も語られないことへの空虚さかもしれない。
三つ目は、松本人志氏が動画配信「ダウンタウンチャンネル(仮称)」を始めるというニュース。彼が戻ってくるのは時間の問題だと思っていたし、こういう形になるのも予想の範囲内だった。以前のブログでも私は、「テレビでの復帰は難しいが、必ず配信という場に戻ってくる」と指摘していた。なので報道に驚きはない。むしろ、何も変わらないことに対して、少しだけ疲れを感じる。話題性や注目度が先行し、問い直すべきことが置き去りにされていく。それでも人々は見てしまうし、語ってしまう。その流れに抗えない自分にも、少し「がっかり」する。
こうして並べてみると、「がっかり」にはある種の法則性があるように思えてくる。予測が当たってしまったとき、人は驚きではなく虚しさを感じる。そこには、社会が動かないことへの諦めがある。声を上げても届かない、批評が空回りするような感覚。がっかりとは、停滞した現実に対する感情の沈殿なのかもしれない
「がっかりの法則」とは、こう言えるだろう。
予測可能性が高いほど、失望は深くなる。
変化が起こらないほど、感情は鈍っていく。
そして、批評が響かないほど、諦めが広がる。

だが、だからこそ、語り続ける意味がある。がっかりを記録することは、社会の鏡を磨くことでもあ。予測が当たることに慣れてしまう前に、そこに問いを立てること。それが、批評の責任であり、教育の営みでもある。
今日の「やっぱりな…」を、明日の「それでも」に変えるために。「がっかりの法則」を見つめながら、希望の手触りを探していきたい。

「Yahoo!ニュース」より

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