【今日のタブチ】「新書の品格」を問う—『情報生産者になる』『持続可能なメディア』『独断と偏見』を通して見えた出版倫理の行方
世の中には、「これは読むべき」と言われる新書がある。手頃なサイズと価格でありながら、書き手の知性や問題意識が凝縮された1冊――読者にとっては、未知との知的遭遇の入口である。私も通勤の途中に重宝している。
この数日、私は新旧あわせて3冊の新書を読んだ。
ひとつは、上野千鶴子著『情報生産者になる』(2018年、筑摩書房)。刊行から時間が経ってはいるが、名著との評判は耳にしていた。読んでみると、確かに評判に違わぬ深さがある。情報の「受け手」ではなく、「生産者」たるべしという上野氏の信念が溢れ出るような本だ。
・「情報」とは「ノイズ」(違和感、こだわり、疑問、引っ掛かり)だ
・研究者は「アーティスト(芸術家)」ではなく、「アルチザン(職人)」である
・「問題」(questionとproblemがある)とは何か。それはあなたをつかんで離さないものだ
などの言葉は、古びることはない。「情報発信者」としての倫理と方法を平易かつ明快に問い直す内容は、読者を“思考の主体”へと導いてくれる。
次に読んだのは、下山進著『持続可能なメディア』(2024年3月刊、講談社現代新書)。現代ジャーナリズムとメディアの可能性を、理論と実例を行き来しながら構造的に探るこの新刊は、「メディアの公共性とは何か」を問う圧倒的な筆致に満ちていた。メディアでありながら「持続性」を保っていないと、生き残ることができないという下山氏の主張は、さまざまな世界の事例によって裏付けされてゆく。本書では、メディアの持続性を脅かす事例として、日本テレビに関するコンプライアンス問題やフジテレビの一連の不祥事が示唆されている。こうした社会の深層に切り込む視線は、まさに“新書らしい”知的緊張感に満ちている。
そして3冊目は、二宮和也著『独断と偏見』(2024年、幻冬舎新書)。これは、インタビュー形式の語りをそのまま収録したものらしい。読み終えて、私は言葉に詰まった。知性の欠片もない。編集者によるヨイショ質問に、著者が答えただけの薄っぺらい談話。出版物と呼ぶにはあまりにも浅い。
『独断と偏見』の構成は、10の四字熟語をテーマに、著者が100の問いに答える形式で展開されている。その中には「心機一転」「適材適所」「喜怒哀楽」など、日常的な言葉を使って、著者の人生観や仕事観を語る章がある。趣向としては面白い。
例えば、「適材適所」の章では、著者が「自分は器用だから、どこに置かれてもそれなりにやれる」と語っているくだりがある(※要約)。この言葉は一見すると自己肯定的で前向きだが、裏を返せば「深く考えなくても、なんとなくやれる」という姿勢にも読める。そこに編集者が突っ込まず、ただ「なるほど」と流してしまう姿勢は、読者に思考の余白を与えるどころか、思考の停止を促してしまう危険性がある。
また、「猪突猛進」の章では、「やりたいと思ったらすぐ動く。考えてる暇があったら動いた方がいい」という趣旨の発言があった(※要約)。これも、行動力を称えるようでいて、「考えること」を軽視するメッセージとして受け取られかねない。軽さやわかりやすさは歓迎されるものだが、それが「考えないこと」の言い訳になってはならない。
だがここで責めるべきは、著者ではなく編集者と出版社の姿勢ではないか。出版自体は悪くない。二宮氏も編集者の質問に真摯に逃げずに答えている。語り手としての誠実さはあった。だが、内容・構成・編集の在り方を見渡せば、それは「新書」というかたちではなかった。
二宮氏の名があれば売れる――そうした“売るためだけ”の判断が、この本の「品格」を形づくったのだろう。実際に、同書はベストセラーになっている。
だが、それは「新書」として許されるのか。
新書とは、文庫本や単行本とサイズが違うだけのものではない。「新書」というかたちには、「こうあるべき」という編集理念や文化的定義があるはずだ。読者が新書に期待するものとは何か。著者や編集者が守るべき一線とは何か。そこには出版倫理が問われて然るべきだ。
新書が持つべき品格。それは単に内容の優劣ではない。
社会と知をつなぐ架け橋として、読者の知的好奇心に応え、時に挑戦を促す姿勢。著者の視点があってこそだが、それを形づくる編集の力と矜持こそ、新書の本質を左右する。
読者もまた、問われている。
売れているから読む、ではなく、読むからには問う。その意識が、出版文化の健全性を保つ鍵となるのではないか。
※画像はAmazon商品ページより引用