【今日のタブチ】『ババンババンバンバンパイア』を観て思い出した、吉沢亮の“封印された事件”――「俳優」として見るか、「ひとりの人間」として見るか
映画『ババンババンバンバンパイア』を配信で観た。劇場公開時は見逃してしまったが、ようやくその奇妙で愛おしい世界に触れることができた。
配信というメディアは、見逃した作品に再び触れる機会を与えてくれる。ときに劇場よりも自由で、地上波よりも誠実だ。とくに邦画のように上映期間が短く、宣伝も限られている作品にとって、配信は“第二の公開”とも言える存在だろう。観客にとっても、批評家にとっても、ありがたい時代になった。
この映画を観たことで、私はある“封印された事実”に再び向き合うことになった。
主演の吉沢亮氏は、この作品で450歳の吸血鬼・森蘭丸を演じている。ギャグと色気と狂気が入り混じった、難易度の高い役だ。演技は素晴らしかった。振り切ったテンション、舞台的な演出、昭和レトロな空気感――どれもが彼の演技力を引き立てていた。原作ファンからも「忠実に世界観を再現している」と高い評価を得ており、映画独自の演出が原作の空気感を壊すことなく、むしろ拡張していたという声も多い。
だが、この映画の撮影後、吉沢氏はある事件を起こしている。
2024年12月、自宅マンションの隣室に泥酔状態で誤って侵入し、住居侵入容疑で書類送検された。不起訴処分となり、暴力や物損はなかったとはいえ、芸能界ではこの件は“なかったこと”として扱われている。報道は一部にとどまり、事務所も沈黙を貫いた。テレビ局も触れない。それは、芸能界における“タブー”の典型だ。主演俳優が公開直前に事件を起こす――それは作品の価値やスタッフの努力を傷つけかねない。だからこそ、語られない。封印される。
私は今はテレビ局員ではない。だからこそ、こうして書ける。もし現役だったら、このブログは書けなかっただろう。事務所への忖度、スポンサーとの関係、そして「視聴率と好感度がすべて」という空気の中では、俳優の人間性に触れることすら“リスク”になる。テレビの世界では、事実よりも“空気”が優先されることがある。
もちろん、「芸能人の不祥事と作品は関係ない」という声もある。私も基本的にはその立場だ。作品は作品であり、俳優の私生活とは切り離して評価されるべきだと思っている。
だが、今回はあえてこの事件に触れてみたい。
なぜなら、この作品における吉沢亮の演技があまりに素晴らしく、あまりに振り切れていたからだ。その演技の背景に、俳優としての責任感や精神的な負荷があったとすれば、それは作品の一部として見つめる価値があるのではないか――そう思ったからだ。
昔と違って、いまはコンプライアンスや好感度に対する風潮が厳しくなっている。だからこそ、タレントや芸能人の不祥事は、報じられずに“なかったこと”にされる傾向がある。
だが、そのことに私は違和感を覚える。
不祥事の向こう側にある葛藤や疲労、迷いや揺らぎ――そうした人間的な背景こそ、しっかりと見つめるべきではないか。
それは、俳優という職業の過酷さを理解することでもあり、表現という営みの深さを知ることでもある。
私自身、NHK BSプレミアム『もうひとりの渋沢~孫・敬三が挑んだ改革』(2023年2月放送)で吉沢亮氏と仕事をしたことがある。彼はナビゲーターとして出演してくれたが、その現場での姿勢は、すべてに前向きで、驚くほどストイックだった。セリフをとちると、すごく悔しそうに自分を責める。スタジオが直しに入っている寸暇にも、しゃべるときの一挙一動を何度も自分で繰り返していた。誰に見せるでもなく、誰に言われるでもなく、ただ自分の納得のために。あの姿を見たとき、私は「この人は役者である前に、職人だ」と感じた。
吉沢氏はこの映画の直前に、もうひとつの主演作『国宝』を撮影していた。歌舞伎役者・喜久雄という、孤独と芸の極致を生きる男を演じた作品だ。1年以上の稽古を経て、身体性と精神性の両面で役に入り込んでいたという。本人も「覚悟と意地で挑んだ」と語っている。
その直後に『ババンバ』でギャグ全開の吸血鬼を演じる。演技の振り幅は極端だ。観客を笑わせることへの責任感も大きかったはずだ。実際、吉沢氏は舞台挨拶で「上映後のお客さんのテンションが低かったらどうしようと不安で(笑)。皆様の笑顔を見てちょっと安心しました」と語っている。笑いが届くかどうかに対して、彼がどれほど繊細に気を配っていたかが伝わってくる言葉だ。
この二作品を連続して演じたことは、俳優としての挑戦であると同時に、精神的な摩耗の要因にもなり得る。演技とは、役に入り込むことだけではなく、役から抜け出すことでもある。だが、抜け出す瞬間に生じる「空白」や「揺らぎ」は、誰にも見えない。
事件が起きたのは、ちょうど『国宝』の宣伝活動が続いていた時期であり、『ババンバ』の公開を控えたタイミングでもあった。年末という節目、主演という重責、そして役から解放されたあとの虚脱――それらが重なったときに、何が起きてしまうのかは、私たちには想像するしかない。
事件を「なかったこと」にしてしまうよりも、それを引き起こした一人の人間としての葛藤や悩み、疲労や揺らぎも含めて、その人物を見ていくこと。それこそが、本当に“応援している”ということなのではないかと思う。
俳優は、スクリーンの中で完璧に見える。だが、その裏には、完璧ではいられない日常がある。その両方を見つめることが、私たち観客や批評者の責任でもあるはずだ。
「映画.com」より