【今日のタブチ】お笑いタレント稲田直樹氏インスタ乗っ取り事件:その手口と構造を読み解く――「語りの乗っ取り」に対抗するには
インスタグラムのアカウントが乗っ取られ、本人になりすましてメッセージが送られる――そんな事件がまた起きた。お笑いコンビ「アインシュタイン」の稲田直樹氏のインスタグラムに不正ログインしたとして、警視庁サイバー犯罪対策課は住所不定の男を逮捕した。男は稲田氏とは面識がなく、生年月日などの公開情報からパスワードを推測したという。驚くべきは、この男が少なくとも約70件のアカウントに不正ログインを繰り返していたという事実だ。その中には、プロスポーツ選手や男性俳優など、著名人のアカウントも含まれていた。
この事件は、単なるサイバー犯罪ではない。SNSという語りの場において、本人の言葉を模倣し、他者に向けて発信するという「語りの乗っ取り」が行われた点において、現代的な倫理課題を孕んでいる。とりわけ、稲田氏のアカウントから女性に対して性的な画像を要求するメッセージが送られていたことは、語りの信頼性を根底から崩す。本人の語りが、他者の欲望の代弁者として機能してしまう恐ろしさ。それは、単なるプライバシーの「侵害」ではなく、人格やアイデンティティの「侵食」である。
なぜこうした乗っ取りが可能なのか。手口は極めて原始的だ。パスワードの推測。SNS上に公開された情報――誕生日、ペットの名前、出身地、好きなスポーツチーム――それらを組み合わせて、ログインを試みる。著名人であればあるほど、情報は豊富で、推測の材料が揃っている。セキュリティ教育は、果たしてどこまで届いているのか。二段階認証の導入や、複雑なパスワードの設定は、一般ユーザーには浸透しつつあるが、芸能人やスポーツ選手など、発信を生業とする人々にとっては、利便性が優先されがちだ。「覚えやすさ」が「破られやすさ」と表裏一体であることを、どれだけの人が実感しているだろうか。
私はかつて、ストーカー加害者にインタビューしたドキュメンタリー制作の経験がある。ある女性は、熱心な漫画家のファンだった。彼女はその漫画家のSNS投稿――誕生日、ペットの名前、近所の風景、好きなカフェ――そうした断片的な情報を丹念に拾い集め、住所を特定し、つきまとい行為を繰り返した。彼女にとってSNSは、憧れの対象との距離を縮める手段であり、同時に「語りが描く地図」でもあった。語られた言葉や画像が、現実の空間を侵食する。その危うさを、私たちはどれほど自覚しているだろうか。
このエピソードは、語りが単なる情報ではなく、現実を構成する力を持つことを示している。SNSにおける語りは、自己表現であると同時に、他者に向けた「座標の提示」でもある。語りが乗っ取られたとき、その座標は他者の欲望に従属し、暴力的な接近を可能にする。今回のインスタ乗っ取り事件も、まさにその構造の延長線上にある。語りの信頼性が破られたとき、人格の境界もまた曖昧になる。
ほかのSNSよりインスタグラムが狙われやすい理由もある。
まず、視覚的な信頼性。画像や動画が中心のプラットフォームでは、本人らしさが強く演出されるため、乗っ取られてもフォロワーが疑いにくい。次に、DM機能の充実。画像や動画の送受信が容易で、性的な目的に悪用されやすい。そして、通知の盲点。複数端末でログインしている場合、異常なログインに気づきにくい。これらの構造的な脆弱性が、インスタを「語りの乗っ取り」に最適化された場にしてしまっている。
そして更に私たちが考えなければならないのは、今回のように芸能人や著名人の語りが乗っ取られたとき、社会はどう反応するのか、ということだ。
まずは「本人がそんなことを言うはずがない」という直感的な拒否。そして「乗っ取られたらしい」という報道による納得。しかし、その間にある時間差が、語りの信頼性を損なう。フォロワーの中には、疑念を抱いたまま離れていく者もいるだろう。語りは、瞬間的に信じられ、瞬間的に疑われる。その脆さは、SNSという場の構造に起因している。
「疑惑」と「真実」の間にあるメディアの構造も見逃せない。報道は、事実を伝えると同時に、疑惑を拡散する。「不正ログインされた」という事実が報じられるまでの間、メッセージの内容だけが切り取られ、拡散される可能性がある。そのとき、語りは「本人のもの」として受け取られ、真実とは異なる印象が形成される。メディアは、語りの媒介者であると同時に、語りの変容装置でもある。
この事件は、語りの倫理を問い直す契機である。SNSは、自己表現の場であると同時に、他者との関係性を築く場でもある。その語りが乗っ取られたとき、被害者は単に情報を失うのではなく、語りの主体性を奪われる。それは、人格の一部が切り取られ、他者の欲望に奉仕させられるという、極めて暴力的な行為だ。
語りの乗っ取りに対抗するには、技術的なセキュリティ対策だけでなく、語りの倫理を共有する文化が必要だ。「この語りは本当に本人のものか?」と問い直す習慣。「語りの信頼性」を守るためのリテラシー。それは、SNSを使うすべての人に求められる、現代の語りを支える倫理の実践である。
「FNNプライムオンライン」より