【今日のタブチ】サントリー会長「辞任劇」に潜む<語り>と<沈黙>の二重構造──新浪剛史と石破茂、「観測気球」と「煙幕」の力学を問う
サントリーHD会長・新浪剛史氏の辞任は、企業倫理の名のもとに語られる「表の顔」を象徴する事件だ。
違法薬物疑惑のあるサプリメント購入に関する捜査が発端とされ、企業は迅速に「リスク管理」を発動した。経済同友会代表幹事という公的立場を考慮すれば、社会的責任の重さは計り知れない。辞任は当然──そう語られる。
だが、その語りの背後に、もう一つの「顔」が浮かび上がる。MSNニュースやスポニチの報道によれば、新浪氏は社内で「クーデターにはめられた」と発言していたとされる。辞任は自発的というより、2025年8月28日に開催された新浪氏を除く取締役・監査役による緊急会合において、「捜査結果を待つべきか」「疑義の段階で解任すべきか」という意見が割れた末、過去の貢献を考慮して「形式的辞任」解決法が選ばれた。鳥井社長自身が「解任という意見もあった」と明言しており、これは“追い込まれた”退場と呼ぶにふさわしい構造である。
加えて、今回の辞任劇が「サプリメント購入」に端を発している点も見逃せない。
新浪氏は社長就任以降、酒類中心のブランド哲学から脱却し、「食品から健康へ」という事業転換を掲げてきた。とりわけサプリメント事業は、彼の主導によって広告戦略・通販強化が進み、急成長を遂げた分野である。
しかしこの方針は、創業者一族の価値観と乖離していた可能性がある。サントリーは非上場企業であり、創業家の影響力が依然として強く、企業文化の根幹に酒類事業へのこだわりが残る。新浪氏の改革は、社内カルチャーの転換を伴うものであり、サプリメント事業の急伸は“社内的緊張”を生んでいたと見る向きもある。
今回の辞任理由が「違法薬物の疑いがあるサプリメントの購入」であったことは、偶然ではなく、象徴的な事象だと私は推察している。製品はサントリー製ではないにもかかわらず、「サプリメント」という商品軸が辞任の引き金となったことは、企業内の力学──とりわけ新浪氏の推進する事業の価値を下げ、結果的に創業家との価値観との断層を際立たせてしまった。実際に、ネットなどでは「サントリーのサプリ、もう買わない」という声が多く見られる。
つまり、辞任は「倫理的問題」ではなく、「事業軸の衝突」が表面化した結果とも読めるのである。
そしてもう一つ、見逃してはならないことがある。石破茂首相の辞任報道が再浮上する中、メディアの視線を逸らすための「煙幕」として新浪辞任劇が利用されたという説だ。報道のタイミング、報道量、SNS上での話題の移行速度──それらは「語られること」と「語られないこと」の力学を示している。
実際、2025年7月23日には読売新聞が「石破首相退陣へ」と題した号外を配布し、毎日新聞も「8月末までに退陣表明」と報じた。しかし、石破氏本人は報道から4時間後に「そのような発言はしていない」と明確に否定。週刊文春は「石破首相は周辺に進退を伝えていた」と報じ、読売新聞は「誤報ではない」と反論。
東洋経済は「退陣報道は本人が否定したが、党内の退陣圧力は現実に存在する」と指摘している。
このように、報道の内容・タイミング・否定・反論が交錯する中で、辞任報道は単なる誤報ではなく、政治的力学の中で「観測気球」として機能していた可能性がある。だとすれば、新浪辞任劇は、その報道の焦点を逸らす「煙幕」としての役割を果たした──そういう見立ても成り立つのだ。
問いが立ち上がる。
企業倫理とは、誰が定義し、誰が裁くのか。
疑義の段階での辞任は、制度の自律か、他律か。
報道の優先順位は、誰の利益によって決まるのか。
辞任劇は、政治的操作の道具となりうるのか。
この辞任劇は、単なる個人の退場ではない。「誰が語り、誰が沈黙するか」という構造的問いを突きつけている。
企業統治と政治報道が交錯する場面で、語りの正統性は誰によって担保され、沈黙はどのように強制されるのか。「辞任」という形は、責任の表明であると同時に、語ることを終わらせる制度的な“身振り”でもある。誰が語り、誰が沈黙するか──その選別は、制度の中で無意識におこなわれているのだ。
新浪剛史という鏡像に映っていたのは、真実の顔ではない。
映されなかった面にこそ、私たちが目を向けるべきものが潜んでいる。
それに気づかずに、この辞任劇を語ることはできない。
「TBS NEWS DIG」より