【今日のタブチ】タイタニックの《懐中時計》に3.6億円――手放した「遺族」と手にした「落札者」の思惑とは?
1912年の航海中、氷山に衝突し沈没したイギリスの豪華客船タイタニック号。その乗客が持っていた金の懐中時計が、競売にかけられ、約178万ポンド(約3億6,500万円)で落札された。競売会社によると、事故の遺品やゆかりの贈りものとしては過去最高額だという。
所有者は、アメリカ・ニューヨークの老舗百貨店メーシーズの共同オーナーだったイジドー・ストラウス氏。妻のアイダ氏がイジドー氏の43歳の誕生日に贈ったとされる。もちろん、もともとは3.6億円ではなかったと思うが、当時の価値はいかほどだったのか、想像をかき立てられる。
時計の針は、客船が海に沈んだ午前2時20分ごろで止まっていた。夫婦は定員が限られていた救命ボートに乗ることを拒み、船に残った。その散り際の美しさには、涙をそそられる。
時計は事故後に発見され、一族に代々受け継がれてきたという。しかし、なぜこのタイミングで競売にかけたのか。夫妻の“潔さ”に比して、遺族の器の小ささを残念に思う人もいるだろう。だが、私が当の遺族だったなら、どうするだろうか。一概に「大金に目がくらんだ」とは言えないのではないか。
専門家によれば、遺品を競売に出す理由は単なる換金ではない。
歴史に委ねることで、個人の所有から公共の記憶へと移す意味がある。さらに「家族だけでなく、世界に物語を共有したい」という思いもあるという。過去を手放し、新しい章を開く心理的整理や、維持管理の負担を減らす現実的な事情も背景にある。こうした動機は、ナポレオンの帽子やマリリン・モンローのドレスなど、歴史的遺品の競売でも見られる。遺族にとっては、手放すことが“記憶を閉じる”のではなく、“より多くの人に開く”行為なのだ。
イジドー氏とアイダ氏は、自らの命よりも他者への思いやりを選んだ。救命ボートの定員が限られていた中で、彼らは自分たちの席を譲り、船に残った。その潔さは、現代の私たちにとっても胸を打つ。しかし、懐中時計が巨額で取引される現実は、単なるお金の話ではない。モノに宿る記憶を、時代を超えてどう扱うべきかという問いを投げかけている。
遺族は、その物語を閉じるのではなく、世界に開く決断をした。夫妻が最後に示した思いやりは、他者への愛だった。そして今、その精神は、歴史の共有という形で生き続けている。止まった針が、再び人々の心を動かし始めたのだ。
一方で、3.6億円を投じた側の心理も気になる。単なる贅沢や投資ではなく、「歴史の一部を自分の手に収めたい」という強い欲求があるのだろう。専門家によれば、こうした落札には“所有する喜び”と同時に、“保存し、後世に伝える使命感”が伴うことも多いという。ナポレオンの帽子やマリリン・モンローのドレスが高額で落札された事例も同じだ。止まった針を手にした新しい所有者は、果たしてそれを個人の宝物にするのか、それとも世界に開くのか。あなたなら、3.6億円で“止まった時間”を買いますか?
およそ1世紀以上の時を経て、脚光を浴びた夫妻の懐中時計。海底で止まった時間が、今、歴史を動かしている。これから新しい時を刻み続けることだろう。
「岐阜新聞デジタル」より


