【今日のタブチ】ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』は“壮大なる”無駄遣い――《三方良し》の精神を忘れた「名脚本家」の挑戦が向かう先は……

フジテレビで始まったドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』の初回を見た。脚本が三谷幸喜氏であるということから、放送前から評判になっていた。まだ初回なので、この後の展開によって印象が変わる可能性はあるが、まずは初見の感想を述べたい。

このドラマは、1984年の渋谷を舞台に、劇団を追放された若き演出家・久部三成(菅田将暉)が、迷い込んだ架空のアーケード街「八分坂(渋谷駅から8分、の意味)」で出会ったストリップ劇場「WS劇場」の人々とともに、再び舞台に立つ希望を模索する群像劇である。かつての熱狂が失われた劇場で、久部はかつての仲間・リカ(二階堂ふみ)と再会し、演劇と人生の“楽屋”を探す旅が始まる。

「どこかで聞いたことがある設定だな」と思いながらも、豪華キャストと西浦正記監督への信頼から、期待を込めて初回を視聴した。だが――率直に言って、がっかりした。
三谷幸喜氏は、『やっぱり猫が好き』から始まり『古畑任三郎シリーズ』『王様のレストラン』など、ドラマの黄金期を築いたひとりであり、私自身もその作品群に夢中になった張本人だ。
映画においても、監督・脚本を兼任した『ラヂオの時間』『みんなのいえ』『THE 有頂天ホテル』『ステキな金縛り』など、映画館で笑いをこらえるのに必死だった作品の数々は、燦然と輝く栄光と言える。
テレビ局員という特権で、多くの素晴らしい舞台も観せてもらった。『ショウ・マスト・ゴー・オン』『バッド・ニュース☆グッド・タイミング』『おのれナポレオン』など私が好きな作品を挙げればきりがないが、一番のお気に入りは『子供の事情』だ。

このように枚挙にいとまがないほど、三谷氏の作品はどれも素晴らしかった。

だが、今回のドラマに対して「がっかりした」と感じたのには、別の理由がある。
このドラマは、脚本の三谷氏の半自伝だという触れ込みもある。だが、私としては、かつて氏に脚本依頼をした経験があるだけに、少し違う見方をしている
テレビ局のドラマプロデューサー時代、私は三谷氏と一度仕事をしてみたいと熱望していた。そして「当たって砕けろ」とばかりにオファーをしてみた。すると意外や意外、「テレ東は興味ある」というリアクションをもらった。そして、三谷氏からは「タイムスリップものがいい」というオーダーが来た。現代の劇団員が戦国時代にタイムスリップして、戦や飢饉で退廃した世に「笑い」と人々の笑顔を取り戻す群像劇。三谷氏が提案してくれたのは、そんなようなストーリーラインだった。私は「おもしろい」と思い、局内をオーソライズしたが、「時代劇かぁ」と反応は鈍かった。テレビドラマの世界では、「時代劇は視聴者層も限られ、視聴率が望めない」という定説があったからだ。そして、そうこうしているうちに三谷氏のスケジュールが忙しくなってしまった。

確かに三谷氏の作品のモチーフには、劇団がよく出てくる。それは、氏の「劇団愛」が半端ではないことを表している。だが、今回の『もしがく(そう呼ばれているらしい)』の設定を知って、かれこれ15年もの間、三谷氏は当時私に提案してくれたアイデアを温め続けていたのではないかと感じた。

「ああ、三谷氏はどうしてもこのドラマを作りたかったのだ」そう思った。

ドラマの企画は何年も前から始められる。だから、本ドラマもずいぶん前に企画されたことは想定できる。だが、今回のドラマを起死回生のチャンスにしたいフジとしては、自分たちの発案やオペレートできる案ではなく、三谷氏の「やりたい企画」に乗った可能性がある。私はそう見ている。

いまのドラマ界、映画界は「回顧ブーム」だ。最近見た映画『宝島』も終戦当時の沖縄本土を見事に再現して話題となっている。そう考えると、今回のスタッフが創り上げた昭和の雰囲気はとてもよかった。西浦正記監督の演出も素晴らしい。随所に工夫が見られる。八分坂をなめるようにドリーするショットは鳥肌が立った。アップの使い方も多用せず、決めるのがうまい。さすが、西浦演出だ。俳優陣も頑張っている。特に、菅田将暉氏の“身体を張った”演技には、目が離せない。美術も素晴らしい。こういう「時代モノ」と言われるドラマは、時代性をどれだけ忠実に再現できるかが勝負だ。小物や当時の流行、グッズや服装にまでこだわった点は評価に値する。
それだけに、脚本のアラが目立った。
初回の放送だけを見れば、この作品は「“壮大なる”無駄遣い」だ。「三谷幸喜というネームでこれだけの俳優を集めました」というお披露目に過ぎない。私の好きな俳優・神木隆之介氏の良さも生かし切れていない。脚本は、豪華なキャストを生かしきれていない。西浦監督をはじめとした制作陣は、頑張って「1984年当時」の空気感を再現しようとしている。この苦労も、この脚本では水の泡だ。メリハリのないストーリーラインは、演出や俳優の感情表現で起伏をつけるしかなくなってしまっている。だが、それにも限界がある。
加えて、タイトルを含めた、あらゆるところに登場するシェークスピアへのオマージュも、残念ながら万人には届いていない。ましてや若い世代には厳しい。劇中で主人公が叫ぶ「理解しなくていい!」という言葉が、空虚に響く。
“この世が舞台なら、楽屋はどこか”という問いは、観客の居場所を探す問いでもある。だが、“理解しなくていい”と突き放す脚本は、その問いを自ら手放してしまっている。
三谷脚本は、かつての「三方良し」の精神を忘れていないか。「作り手」や「売り手」だけがよければいいという自己満足に陥っていないか。観客の知性と感性を信じていたかつての三谷作品とは、明らかに距離がある

以上のように苦言を述べたが、三谷氏の長年の構想に乗っかったとはいえ、中居氏性加害問題で失墜した権威挽回をはかろうとするフジテレビの挑戦は評価したい。それだけに、2回目以降の脚本の挽回を期待する。
そして、このドラマが、かつての三谷作品のように“観客の笑顔”を信じるものへと変貌することを、心から願っている。

「フジテレビ公式HP」より

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