【今日のタブチ】北海道のヒグマはなぜ人を襲うのか?ー「恐怖」と「共存」の狭間で「自然」との距離感を見誤る私たちに突きつけられた問い

知床で登山者がヒグマに襲われたという記事を読んだ。2人で下山中、前を歩いていた仲間が突然襲われ、林の奥へと引きずり込まれたという。その場にいた人の恐怖は、想像を絶する。自然の中で、突如として「人間の領域」が侵食される瞬間。その光景は、ただの事故ではなく、何かもっと深い問いを突きつけてくるように思えた。
最近、北海道ではヒグマによる人身事故が相次いでいる。農地への侵入鉄道との衝突登山者への襲撃。なぜ今、ヒグマの出没がこれほど多発しているのか。単なる「熊が増えたから」では説明しきれない。山林の開発、気候変動による生態系の変化、餌不足、そして人間の生活圏との境界が曖昧になっていること。ヒグマの行動は、異常ではなく、むしろ環境に対する適応なのではないか。そう考えると、彼らを一方的に「加害者」として恐れることに、どこか違和感を覚える。
子どものころに観た映画『グリズリー』を思い出す。巨大な熊が人間を襲うパニック映画で、当時はただ怖かった。でも今振り返ると、あの映画が描いていたのは「自然の復讐」だったのかもしれない。人間が自然を侵し続けた結果、熊が牙を剥く。そんな寓話的な構造が、現実のヒグマ事件と重なって見える。ヒグマは、自然の怒りを代弁する存在なのか。それとも、私たちが見落としてきた環境の声を代弁する「語り部」なのか
こういったヒグマの事件が経済的な損失につながるのかということに興味が湧いた。調べてみると、農作物の被害は年間数億円にのぼり、鉄道の運行にも支障が出ている。観光業や登山客の減少による地域経済への打撃も無視できない。実際、羅臼岳では登山道の一部が封鎖され、入山規制が行われている。夏休みの旅行で北海道を訪れた人々の中には、予定変更を余儀なくされたケースもあるという。ヒグマの出没は、単なる自然災害ではなく、社会構造の歪みを映し出す鏡のようだ。人間と自然との距離が、どこかで狂ってしまったのではないか。
では、どうすればよいのか。海外では、ヒグマとの共存を前提にした対策が進んでいる。ルーマニアでは、緊急アラートやスマホアプリによる出没情報の共有、電気柵や監視カメラによる行動モニタリングが行われている。子どもたちへの自然教育も重視されている。これらは、日本でも導入可能な仕組みだ。駆除ではなく、予防と教育、そして情報の共有によって、ヒグマとの距離を測り直すことができるかもしれない。
ヒグマを責めるのではなく、彼らの行動の背景にある環境や社会の変化に目を向けること。その先に、自然との新しい関係性が見えてくる。恐怖の奥にある問いに耳を澄ませながら、私たちはヒグマとどう向き合うべきなのか。それは、次の世代にどんな自然を残すかという問いでもある。

「Yahoo!ニュース」より

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