【今日のタブチ】学校という子どもたちの領域に忍び寄る「日本人ファースト」という言葉と歴史的な高水準の「エンゲル係数」――無関係に思える2つのニュースに隠された《地続きの構造》と《見えない分断》
今朝の新聞の一面に、まったく異なるように見える二つのニュースが並んでいた。一つは「日本人ファースト」という言葉が教育現場に広がりつつあることへの懸念。もう一つは、エンゲル係数が歴史的な高水準に達しているという報道。片や子どもたちの世界に忍び寄る排除の空気、片や家庭の食卓を圧迫する生活の実感。一見無関係に思えるこの二つの現象は、実は同じ根から生まれているのではないか──そんな疑問が浮かんだ。
「日本人ファースト」という言葉は、政治的スローガンとして登場したが、今や学校現場でも耳にするようになっている。教育関係者や教員たちは、この言葉が子どもたちの間で差別やいじめを助長するのではないかと危惧している。子どもは「知らないものを恐れ、排除しようとする」傾向がある。その傾向が、言葉の力によって正当化されてしまう危険があるのだ。
実際、日本の学校に通う外国籍の子どもはこの10年で約8割増加している。文部科学省の統計によれば、2023年度には約5万人を超え、都市部では教室の中に複数の言語が飛び交うことも珍しくなくなるだろう。こうした変化に対応しようと、教員たちは多言語対応の教材を工夫し、地域では「誰も排除されない学校を」と署名運動が広がっている。ある小学校では、給食の時間に各国の食文化を紹介する取り組みが始まり、子どもたちが「違い」を知ることで「恐れ」が和らぐよう工夫されている。
一方、エンゲル係数の上昇は、家庭の生活にじわじわと影を落としている。総務省の家計調査によれば、2024年の全国平均は28.3%と、43年ぶりの高水準。さらに直近5年間の平均では、全国37都市で過去最高値を記録している。私たちはつい物価高という表層的な現象に目が向きがちだが、その背後には、実質賃金の低下、非正規雇用の増加、単身世帯の増加といった、生活の基盤を揺るがす構造的な問題が潜んでいる。
生活に余裕がなくなると、人は「自分たちの取り分」を守ろうとする。その心理が、他者への不寛容や排他性を生む。「日本人ファースト」という言葉が、そうした不安の中で「自分たちの正当性」を主張する手段として使われるとき、それは単なるスローガンではなく、社会の分断を加速させる装置となる。「日本人ファースト」という言葉が学校という子どもたちの領域に入り込んでくる不寛容とエンゲル係数が高騰する社会の逼迫は、別々の現象ではなく地続きなのだ。
こうした排他性は、社会の周縁にとどまらず、子どもたちの世界にも静かに浸透していく。限られた資源──給食、支援、注目──をめぐって、「誰が先か」「誰が後か」という序列が生まれる。そのとき、「日本人だから」「外国人だから」という言葉が、差別の根拠になってしまう。教育とは、本来そうした言葉の意味を掘り下げ、生活の不安を越えて他者と共に生きる力を育む営みであるはずだ。
食卓の逼迫と教室の分断。その接点にあるのは、「余裕の喪失」だ。経済的な余裕、時間的な余裕、心の余裕──それらが失われるとき、人は他者を受け入れる力を失ってしまう。だからこそ、教育の現場では「違いを知ること」「語り合うこと」「共に食べること」が、今まで以上に重要になっている。
この二つのニュースが並んだことには、偶然以上の意味がある。それは、社会の根底で起きている変化──生活の不安が、言葉を通じて差別を生み、子どもたちの世界にまで浸透していくという構造への警鐘なのだ。
一見、関係ないように見える事象も、じつはどこかでつながっている──そうした意識を持つことが、今の社会を読み解くうえで欠かせない。もし誰かが巧みに情報を操り、分断を覆い隠そうとしているのだとすれば、私たちに必要なのは、表層の奥に潜む構造への視線と、隠されたものに気づこうとする問題意識なのだ。
「朝日新聞デジタル」より