【今日のタブチ】教員による生徒へのわいせつ行為疑惑が相次いでいる…憲法の「職業選択の自由」はどこまで守られるべきか?~「自由」と「公共」の狭間で私たちが見落としてきたもの
小学校の校外学習時などに盗撮した女児の性的画像を共有したとして、性的姿態撮影処罰法違反の疑いで、名古屋市と横浜市の小学校教員の男2人が逮捕された。福岡県でも同様に、部活動後の女子生徒の着替えを盗撮したとして教員が摘発されている。さらに広島市では、小学校の教室で女子児童の目を覆い、わいせつな行為を試みた教員が、わいせつ目的誘拐と監禁、不同意わいせつ未遂の疑いで逮捕された。このように、教員による児童・生徒へのわいせつ行為の疑いが相次いでいる。
これらが事実であるなら、そうした性的嗜好を持つ人物を教員として採用すべきではないという考えが浮かぶのは、ある意味で自然な感情とも言える。
しかし一方で、日本国憲法には「職業選択の自由」が明記されている。
「自由」とは一体、何を意味するのか?
私たちは今一度、その根本を問い直す必要があるのではないか。
自由とは「何でもできること」ではない。責任や倫理を伴わない自由は、他者の権利や尊厳を踏みにじる危うさを孕む。だとすれば、職業の自由についても、一定の公共的視点からの制限が必要なのではないか。
小児性愛(pedophilia)という性的指向を持つ人が存在することも事実だろう。これは精神医学的には「性的嗜好障害」として分類されることがあるが、嗜好それ自体は違法ではない。しかし、それが実際に行動に移された場合には明確な犯罪となる。
ここで再度確認しておきたいのが、日本国憲法第22条第1項である。
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」
つまり、たとえどのような嗜好を持っていようとも、それだけで職業を制限することは原則としてできない。しかし、公共の福祉―すなわち社会全体の安全と安心――を守るためには、場合によってはその自由を一定程度制限せざるをえないこともある。現に、医師や弁護士などの職業には厳格な資格要件や倫理的基準が課されており、これらもまた「自由」の制限の一形態と言える。
教育者という職業もまた、単なる技能ではなく人格と信頼を基盤とする社会的契約である。教室は、子どもたちが安心して学び、成長する場でなければならない。したがって、教員に就く者には、個人的嗜好だけでなく、その信頼に足るかどうかという倫理的適性が問われるべきである。
実際、文部科学省もこの問題に対して制度的な整備を進めている。
・令和4年に施行された「教育職員等による児童生徒性暴力等の防止等に関する法律」
・性的加害によって免許を失効した教員の情報を全国で共有するデータベースの構築
・再び教壇に立つには「再発の高度な蓋然性がない」ことを客観的に示さねばならない再授与審査制度の導入
つまり、「職業選択の自由」はすでに子どもの権利や公共の安全を守るという観点から、現実の制度として制限されているのだ。では今、私たちは社会としてどのような取り組みが必要なのか。課題は少なくとも4つある。
ひとつは、採用段階におけるスクリーニングの強化だ。教職を志す者に対し、心理的適性や過去の行動歴を丁寧に確認する制度的整備が欠かせない。
ふたつ目は、教員養成課程における倫理教育の徹底である。単なる法令遵守ではなく、教育者としての立ち位置・自己認識を深める指導が必要だ。
みっつ目は、「再犯リスク」と「更生の可能性」のバランスに関する制度的合意である。過去の過ちを背負った者に対し、どこまで機会を与えるのか。その基準と透明性が問われる。
そして最後は、報道のあり方と社会的スティグマの問題である。事件が報じられる際、加害者の職業や属性が過度に強調されることで、教員という職業全体に不信感や偏見が広がり、結果として優秀な人材が遠ざかるという逆転現象が起きかねない。
だが、この問題に向き合うとき、避けて通れない根本的なジレンマがある。そしてこのことが、私たちを「考えること」から遠ざけている。
・「まだ何もしていない人」を排除することは、自由の侵害か?
・「何かをしそうな人」を放置することは、社会的責任の放棄か?
どちらの選択にもリスクがあり、決して単純に割り切れる問いではない。だからこそ私たちは、問い続けなければならないのだ。「誰を守るべきか」と同時に、「誰かを排除することで、この社会が壊れてしまわないか」という、もう一つの問いにも。
自由と信頼の狭間に立たされている私たちは、未来の教育と社会をどう設計してゆけるのか―その構想力と倫理が、いま試されている。
「カンテレNEWS」より