【今日のタブチ】文藝春秋「日枝久 独占告白10時間」を読んだ―「私は独裁者ではない」という言葉に隠された〝真の〟独裁の姿
文藝春秋9月号に掲載された「日枝久 独占告白10時間 中居事件以後初のインタビュー」を読んだ。聞き手・構成はノンフィクション作家の森功氏である。
まず「森さんのような外部の厳しい声で資してもらったほうがいい」という言葉に違和感を覚えた。どういう意味だろうか。内部の人間では甘くなるということか、それとも内部の人間には話したくないというプライドの表れか。
日枝氏の言い分は、一貫して「私は独裁者ではない」という主張だ。「何でも私が決めていると言うが、そんなはずがないでしょう」と繰り返す。
「僕は社長や会長の人事に関して、相談を受けてきました。だから僕にも責任はありますし、そこから逃げようとは思いません。しかし、それはあくまで相談役としての立場でそうするのであり、決めるのは社長であり、会長です」(本文より抜粋)と述べながらも、中居氏と女性とのトラブルに関しては「なぜもっと早く僕に相談しなかったのか、怒りたかった」と語っている。この発言は、まさしく自分の力や発言、アドバイスに有効性があることを示しているのではないか。
また、社内の人間が関係していることを報告しなかったのを取り上げて、「あとになって港たちを呼んで『なんで俺に言わないんだ』と叱りました」としゃあしゃあと述べている。部下とはいえ、大の大人をそんな(報告しなかったことを責める)ような叱り方をする権力者を「独裁」と言わずして、何を「独裁」と呼ぶのか。
他にも、第三者委員会への批判や遠藤龍之介氏、港浩一氏などの評価について、「言葉に正確性を欠く」「コンプラに向いていない」など、フジの執行部に対する批評を繰り返す。それはあたかも「自分は悪くない。悪いのは無能な彼らだ」と言っているように私には思えて仕方がなかった。
しかし、よく考えてみるとどうだろう。そういった執行部である後輩たちをしっかりと育ててこなかった、いわゆる後継者を作ってこなかったことが、日枝氏が「独裁者」と言われるゆえんなのではないか。もし彼らが日枝氏の言うように「無能」なのだとすると、それはあえてそうさせてきたことに、日枝氏の策略的な思惑があると思われても仕方がないのではないだろうか。そんなふうに私には思えた。
日枝氏が「無能な執行部」を批判する姿は、まるで自らが梁山泊の首領・宋江であるかのようだ。『水滸伝』において宋江は、前首領・晁蓋の死後に実権を握り、梁山泊の英雄たちを率いて朝廷に帰順する。しかしその過程で、彼は仲間たちの理想を裏切ったとも言われる。毛沢東が「宋江は革命を裏切った」と批判したように、宋江の「忠義」は、実は体制への迎合であり、梁山泊の精神を骨抜きにしたとも解釈される。
日枝氏の言葉にも、似たような構造が見える。「私は決めていない」と言いながら、要所では「怒りたかった」と語る。これはまさに、決定権を持たぬふりをしながら、実質的な影響力を行使してきた証左ではないか。そして、後継者を育てず、批判の矛先を「無能な彼ら」に向ける姿勢は、宋江が梁山泊の理想を継承することなく、朝廷に従った姿と重なる。
さらに言えば、このような策略的な構造は『三国志』にも見られる。董卓の死後、彼の後継者として長安を掌握した李傕は、軍師・賈詡の進言に従い、献帝を擁して権力を握った。李傕は「帝を守る」と言いながら、実質的には皇帝を傀儡とし、政権を私物化した。彼は後継者を育てることなく、猜疑と暴力によって政敵を排除し、最終的には内紛によって自滅する。李傕の姿は、表向きには忠義を語りながら、実際には権力を掌握し続けた策略家の典型である。
このように、中国古典における宋江や李傕の例を見ても、表向きの謙遜や忠義の言葉の裏に、意図的な策略が潜んでいることが読み取れる。日枝氏の言動もまた、「私は独裁者ではない」と言いながら、実質的な影響力を行使し、後継者を育てず、批判の矛先を他者に向けるという構造において、彼らと重なる部分があるように思えてならない。
もし日枝氏が「独裁者ではない」と言うならば、なぜ後継者を育てなかったのか。なぜ「無能な彼ら」に任せるしかなかったのか。その問いに答えない限り、「独裁者ではない」という主張は空虚に響く。
「Yahoo!ニュース」より