【今日のタブチ】新聞メディアの「男性識者が8割」――ジェンダー平等の本質を問う:《語るに値する者》とは“何者”なのか
東京新聞が興味深い取り組みをおこなった。
ジェンダー平等に関して、紙面に登場する識者の性別に隔たりがないか、チェックをしたという。今年8月までの集計で、おおむね8割が男性で、女性は2割にとどまった。
その結果に対して、田中東子・東京大学教授が述べていたコメントが秀逸だった。
「女性を増やすというより、男性を減らすという捉え方をしてもらいたい」
なるほど、と思った。私は、自著『混沌時代の新・テレビ論』のなかで、テレビ業界に「男女参画」が遅れていることを指摘している。さらに、その傾向はテレビの歴史の中において根強いことを批判し、「無理に現場スタッフに女性を入れようとしているのではないかとか、やたら『女性プロデューサー』『女性ディレクター』と『女性』をアピールするのはどうかという声があるが、“あえて”意識して実行してゆかないと改善は困難だ」と警鐘を鳴らした。
田中氏は、「女性識者はSNSなどで攻撃されやすく、登場してもらいにくい要因にもなっている」「『叩いていい』という風潮があること自体を社会問題化してほしい」とも主張している。この現象は「社会問題」として、私たち一人ひとりがちゃんと向き合うことが大切だ。
以上の件に関して、私は2点において提言をしたい。
ひとつめは、「女性2、男性2」という結果を反省し、改善してゆくことはもちろん大切だ。だが、その前にやることがある。「なぜ、そうなったのか」という原因を突き詰めることだ。それは「忖度」なのか「文化」なのか、それとも「たまたま」なのか……もしかしたら記事で取り上げた分野に、女性が進出しにくい、活躍しにくいという、もっと根深い構造的欠陥が潜んでいるかもしれない。その原因を解明しないと、のど元過ぎればというように、しばらく経てば「元の木阿弥」になりかねない。
もうひとつは、これも私が上記の自著で記しているが、「男女参画」は、「男女」というステレオタイプなジェンダーカテゴリーで考えるのではなく、例えば「LGBTQ」の視点も取り入れるなど、今後はもっと広い視野で検討してゆく必要があるのではないか。
この点に関しては、NHK放送文化研究所が2023年に開催した「文研フォーラム」での議論が示唆的だ。メディア組織内の多様性を問うシンポジウムでは、性的マイノリティーを含む多様な属性の識者が登壇し、報道現場における「オンスクリーン」と「オフスクリーン」の偏りについて議論された。
このセッションには、田中氏も登壇しており、「語る資格は誰にあるのか」というテーマのもと、ジェンダー不均衡の構造的背景や、SNS上での攻撃リスクが女性やマイノリティに偏っている現状について、改めて問題提起をおこなっている。今回の東京新聞のコメントと同様、田中氏の主張は一貫しており、メディアの構造改革を促す視座として重要だ。
また、近年では、トランス女性である竹歳幸大氏が、大学のオリエンテーションで「困ったことがあれば私に声をかけてください」と語った事例が報道され、当事者の声を可視化する動きが少しずつ広がっている。
本学・桜美林大学でも、ジェンダーとメディアをめぐる課題に向き合う公開シンポジウムや授業実践が継続的に行われている。たとえば、芸術文化学群やリベラルアーツ学群では、ジェンダー研究プログラムの一環として、LGBTQ当事者を招いた講演や、ケア労働とジェンダーの関係を扱う授業が展開されてきた。特に、芸術文化学群の渡辺久美氏は、「女性の性に生まれてプロジェクト(JSP)」などを通じて、教育現場における語りの偏りや沈黙の構造に対して問題提起を続けており、当事者の声を社会に橋渡しする実践を担っている。
こうした取り組みは、単なる「登場者の多様性」ではなく、「語る資格のある人を誰と見なすか」という根本的な問いを、教育と社会の両側から投げかけている。
日本という国のメディアである、テレビや新聞が男性優位という環境にあることは、「恥ずかしい」という感覚を持つことが肝要だ。それは、単なる反省ではなく、社会の成熟度を測る鏡でもある。
私たちは、「何者」を「語るに値する」と見なしているのか──その問いを、日々のメディア消費のなかで立ち止まって考えてみたい。
語る場を誰に開くのかという選択が、社会の未来を形づくる。その責任を、私たち一人ひとりが共有しているのだ。
「東京新聞デジタル」より
写真は、田中東子氏