【今日のタブチ】松本人志『復帰宣言』の前に説明すべきことがある――“DOWNTOWN+”に漂う《既視感》と《違和感》
松本人志氏が、2025年11月1日、有料配信サービス「DOWNTOWN+」の初回生配信において「復帰」を宣言した。
冒頭で「松本、動きました」と語り、長らく沈黙を続けていた自身の活動再開を報告。ファンや関係者への感謝の言葉を述べる一方で、性加害疑惑についての言及はなかった。
この疑惑は、2024年初頭に『週刊文春』が報じたもので、複数の女性が過去の飲み会で性被害を受けたと訴えたことに端を発する。松本氏は当初、記事内容を否定し、名誉毀損で文藝春秋を提訴したが、同年11月8日、訴えを取り下げるとともに、代理人弁護士を通じてコメントを発表した。
「松本において、かつて女性らが参加する会合に出席しておりました。参加された女性の中で不快な思いをされたり、心を痛められた方々がいらっしゃったのであれば、率直にお詫び申し上げます」
さらに、
「長年支えていただいたファンの皆様、関係者の皆様、多くの後輩芸人の皆さんに多大なご迷惑、ご心配をおかけしたことをお詫びいたします」
と述べている。
しかし、この謝罪はあくまで「仮定の謝罪」にとどまっている。「不快な思いをされた方がいれば」という条件付きの表現は、疑惑の事実を認めるものではなく、法的責任や事実認定を伴わない。実際、被害を訴えた女性の一人は朝日新聞の取材に対し、
「私は仮定ではなく、実在するので深く傷ついた。記事には一切誤りが無いと今も確信している」
と語っており、謝罪の誠意や実効性に疑問を呈する声は少なくない。
また、松本氏側は「金銭の授受は一切なかった」と明言しており、和解金などの支払いも行われていない。裁判が途中で取り下げられたことで、疑惑の真偽についての法的判断は下されないまま、事実上の「幕引き」がなされた形だ。
このような経緯を踏まえれば、復帰宣言に対して「まず説明責任を果たすべきではないか」という批判が出るのは当然である。芸人としての再始動を祝福する声がある一方で、社会的影響力を持つ人物としての責任を問う声もまた、無視できない。
復帰の場として選ばれた「DOWNTOWN+」は、松本氏が「自由な笑い」を追求するために立ち上げた新たなプラットフォームとされている。
しかし、その初回配信を観て感じたのは、どこかで見たことのあるような既視感の強い構成だった。出演者は、いつもの“松本シンパ”の芸人たち。千原ジュニア、宮川大輔、小籔千豊、ほんこん、東野幸治らが並び、彼らとのトークで番組は進行する。
この顔ぶれは、過去の「人志松本のすべらない話」や「松本家の休日」などで何度も見てきたメンバーであり、目新しさは乏しい。トークの内容も、かつての松本氏が見せていた“切れ味”や“毒”を感じさせるものではなく、どこか安全圏での笑いに終始している印象を受けた。
これでは、わざわざ配信でやる意味がないのではないかと思ってしまった。「やはり、配信なのは地上波では復帰は難しいからなのか」という疑惑が、大きく鎌首をもたげてくる。
SNS上では「懐かしい」「やっぱり面白い」といった声もあるが、「すべっているのに周囲が無理に笑っている」「後輩芸人に頼りすぎ」といった批判も少なくない。復帰の第一声としてのインパクトは弱く、むしろ「何事もなかったかのように」振る舞う姿勢が、疑惑の存在を曖昧にしようとする意図すら感じさせる。
「DOWNTOWN+」が目指す「自由な笑い」は、確かに地上波では難しくなった表現の場を提供する可能性を秘めている。しかし、その自由は、説明責任とセットでなければならない。疑惑を抱えたまま、説明も謝罪も曖昧なままに再び笑いの場に立つことは、笑いそのものの力を損なう危険性を孕んでいる。
メディアや芸人が「何事もなかったかのように」振る舞うことで、被害者の声がかき消される構造が再生産されてしまう。松本氏の復帰は、単なる芸能活動の再開ではなく、社会的責任と向き合うべき節目であるはずだ。
そもそも、芸人や俳優などの有名人は、テレビや配信といった影響力のあるメディアを通じて、若者や子どもたちに強いインパクトを与える存在である。彼らの言動は、次世代の価値観や行動様式に少なからず影響を及ぼす。だからこそ、彼らには社会の規範となるべき責任があるのではないか。単に「面白ければいい」「人気があればいい」では済まされない立場にある。
視聴者の側も、笑いの裏にある倫理や責任を見極める目を持つべきだが、同時に、本人たちも「見本」や「目指すべき姿」であることを自覚し、意識的に振る舞う必要がある。
とりわけ、過去に疑惑を抱えた人物が再び公の場に立つのであれば、なおさらその責任は重い。
松本氏が本当に「動いた」のであれば、それは笑いの場に戻ることだけではなく、社会に対して誠実に向き合う姿勢を示すことでもあるはずだ。
復帰とは、単なる再登場ではなく、信頼の再構築である。その第一歩として、説明責任を果たすことこそが、最も重要なのではないか。
「中日新聞デジタル」より


