【今日のタブチ】田中みな実・中川安奈・森香澄を《ラベリング》するメディア――表現者の「消費物化」は“暴力”であり“自傷行為”だ

ある週刊誌に、こういう見出しが躍っていた──「消えた田中みな実…バラエティ番組は中川安奈、森香澄、二強時代」。この一文を見た瞬間、私は強い違和感を覚えた。これは単なる芸能人の流行の変遷を伝える記事ではない。人間を「消耗品」として扱う、典型的なメディアの構造的な暴力の表れだ。
田中みな実氏は、TBS退社後に女優・タレントとして独自の地位を築き、CM出演、映画出演、書籍出版など多方面で成果を上げてきた。露出の形が変わっただけで「消えた」と断じるのは、あまりに短絡的で無礼だ。しかもその比較対象として挙げられる森香澄氏や中川安奈氏も、今まさに自分の表現を模索している最中であり、誰かの「代替品」として語られるべき存在ではない。
数字や出演本数だけを根拠に「今の顔」「もう終わり」と断じるメディアの態度に根本的な問題がある。例えば、田中氏のCM契約数や書籍売上は現在も高水準を維持しており、単なるバラエティ出演数だけで「消えた」とするのは、あまりに視野が狭い。露出の「量」だけをもって価値を測るなら、文化はいつまで経っても成熟しない
さらに問題なのは、「女子アナ」というラベルで彼女たちを括り、比較対象にしてしまう視点だ。この言葉は、女性アナウンサーを“若さ”や“見た目”で消費するバイアス的な構造を内包しており、社会学者・上野千鶴子氏も「女子アナという言葉は、ジェンダーの消費構造そのもの」と批判している。私の恩師である刑法学者・宮澤浩一氏もまた、「ラベリング」することの危険性を生涯にわたって示唆していた。宮澤氏は『新講 犯罪学』の中で、「人間はあるカテゴリーで分類されるべきではない、ましてや“罪を犯した”という前科があるという理由で他者と区別されるべきではない」と説いている。人間の価値はラベル(肩書やレッテル)では測れない──それは犯罪者に限らず、アナウンサーやタレントに対しても同じである。
田中氏も森氏も、報道・バラエティ・演技と多岐にわたる活動をしているにもかかわらず、「女子アナ」という枠に押し込められることで、個人の多面性が無視されてしまう。その結果として、彼女たちの表現は常に「誰かの代わり」「誰かの後釜」として語られ、本人の意志や創造性が軽視される。ラベルが貼られた瞬間、人はそのラベルに沿ってしか見られなくなる。田中氏が「女優としての評価」を得るまでにどれほどの努力と葛藤があったか、森氏が「バラエティの顔」として定着するまでにどれほどの試行錯誤を重ねてきたか──そうしたプロセスを無視して、「消えた」「時代は変わった」と断じるのは、暴力的だ。
表現者の「消費物化」は、単なる言葉の乱用ではない。それは、個人の表現をモノとして扱い、価値を使い捨てるという点で“暴力”であり、同時にメディア自身の信頼や文化的厚みを損なう“自傷行為”でもある。
しかもこの構造は、視聴者の無意識にも浸透している。誰かがテレビに出なくなった途端に「干された」「終わった」と言い、誰かが急に露出を増やすと「今の顔」「次のスター」と持ち上げる。その言葉の裏には、個人の人生や表現を「商品」として扱う視点がある。だが、アナウンサーもタレントも、商品ではない。それぞれの表現を持つ独立した存在である。
田中氏はラジオ番組で「森香澄さんとはお会いしたこともない。対立構造を作ろうとするのは古い」と語っている。この発言は、まさにメディアが仕掛ける「消費的構造」への冷静な批判であり、田中氏の知性と品位を感じさせるものだ。森氏に対しても、「田中みな実の二番煎じ」などと揶揄する声があるが、それは彼女の努力と可能性を踏みにじるものだ。
こうした報道姿勢は、優秀なアナウンサーという才能を浪費するだけでなく、視聴者の認識をも歪める。人間を「時代」で切り捨てるような言説は、文化の成熟を妨げる。
メディアはこういった表現や誤用による世間への「刷り込み」に、もっと自覚的であるべきだ。「消えた」「終わった」「ポスト○○」──こうした言葉は、単なる煽りでは済まされない。それは人間の価値を一面的に切り取り、視聴者の認識を操作する力を持っている。メディアは発言力がある。訴求力がある。だからこそ、その力を自分たちが持っているという責任を、もっと重く受け止めるべきだ。

それぞれの写真は「公式HP」より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です