【今日のタブチ】郡山の飲酒運転事件から考える――「ママは受け付けね」と夢を語った歯科医志望の女性を死なせてしまうことへの「想像力」の欠如はなぜ起きたのか

今朝、福島県郡山市で起きたある判決の記事を読んだ。大阪府から大学受験に訪れていた10代の女性が、酒気帯び運転の軽乗用車にはねられて亡くなった事件だ。事故が起きたのは今年1月22日、午前6時半頃。場所はJR郡山駅前。被告の池田怜平(35)は酒気を帯びた状態で車を運転し、赤信号を無視して交差点に進入。横断歩道を渡っていた女性をはねて死亡させた。
福島地裁郡山支部は9月17日、池田被告に懲役12年(求刑懲役16年)の判決を言い渡した。裁判では、信号無視が故意だったかどうかが争点となったが、判決は「赤信号を認識しながら加速して進入した」として、危険運転致死傷罪の成立を認定した。
亡くなった女性の母親は、代理人弁護士を通じて「裁判所が危険運転を認めてくれたことは良かったが、懲役12年というのはあまりに刑が軽い」とコメントしている。「危険運転についてはさらなる厳罰化を強く望む」とも語った。
記事には、被害者の女性が語っていた夢についても書かれていた。「クリニックを開院したら、ママは受付ね」と笑っていたこと、「ママのインプラント、じいじの入れ歯作ってあげるね」と未来の話をしていたこと。その言葉のひとつひとつが、家族の中でどれだけ希望として響いていたかを思うと、胸が詰まる。もし自分の娘にそんなことが起こったら、自分はどうなってしまうのか。想像するだけで涙が出そうになる。
それなのに、加害者はなぜそれを「想像できなかった」のか。なぜ、酒を飲んで車を運転するという行為が、一人の命と人生を奪い、ひとつの家族の未来を崩壊させる可能性を、想像できなかったのか。
まず思うのは、想像力の非対称性だ。加害者は「自分が捕まったらどうなるか」「仕事や生活がどうなるか」は想像できたかもしれない。でも「この道を渡っている人の人生がどうなるか」は、想像の射程に入っていなかった。想像力は、向ける方向によってその倫理性が問われる。自己保身のための想像は働いても、他者の痛みや未来に向けた想像は働かない。それは想像力の欠如というより、偏りだ。
次に、経験の欠如他者の喪失や悲しみに触れた経験がなければ、それをリアルに想像することは難しい。大学の場で学生と話していても、「想像できるようになる瞬間」は、誰かの語りに触れたときに訪れることが多い。言葉が、映像が、空気が、身体に染み込むような経験がなければ、想像は抽象のまま終わる。加害者がそのような経験を持っていたかどうかはわからないが、少なくともこの事件の前に「誰かの命が失われることの重さ」を実感する機会はなかったのかもしれない。
三つ目は、メディア環境の影響。日常的に暴力や死が映像で消費される中で、「命が失われること」のリアリティが希薄化している。飲酒運転の事故も、ニュースの中では「よくあること」として処理されてしまう。加害者が「人が死ぬかもしれない」という事実を、どこかで“映像的”にしか捉えていなかった可能性もある。現実の重みが、スクリーンの向こう側に押しやられてしまう構造の中で、想像力は鈍っていく。そして最後に、教育の問題だ。そして、私はいまの私の立場や役割として、この点を一番重要視したい。「想像する力」は自然に育つものではない。他者の痛みや未来の可能性を想像する力は、意識的に育てる必要がある。それは倫理的な訓練であり、教育の根幹に関わる。大学で学生と向き合うとき、私はいつも「この人の語りを、どう受け止めるか」を問い続ける。想像することは、受け止めることだ。その力が育っていなければ、飲酒運転のような行為が「ただの選択肢」として現れてしまう
この事件は、ひとつの命が奪われたというだけでなく、「想像する力が働かなかった」という事実を突きつけてくる。それは加害者個人の問題であると同時に、社会全体の問題でもある。私たちは、誰かの未来を想像する力を、どこまで育てているのか。そしてその力が、どこまで倫理と結びついているのか。それを日々、私が置かれた大学という重責の場で考え続けたい。

「ABEMA NEWS」より

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