【今日のタブチ】風景に刻まれる制度:釧路湿原の「メガソーラー騒動」と埼玉県行田の「田んぼアート」が問いかける公共性
釧路湿原でメガソーラー設置が議論を呼んでいる。タンチョウなどの希少動物への影響が懸念されており、釧路市は建設に反対し、設置を許可制とする条例の制定を予定している。だが、なぜ農地ではなく、あえて釧路湿原なのか。
市の担当者は「湿原周辺は平らで工事がしやすい。日照時間が長く、雪が比較的少ないことから太陽光の適地とみなされ、設置が進んでいるのではないか」と述べている。
確かに地形に関して言えば、湿原周辺は起伏が少なく、造成コストを抑えられることは理解できる。だが、日照時間に関しては、釧路は年間約1,700時間と北海道内では比較的長い部類ではあるものの、霧の発生率が高く、実効日照量は不安定との指摘もある。また、積雪量についても、道内の他地域よりは少ないが、冬季の発電効率が低下する傾向は変わらない。
おそらく、一番の利点として事業者や行政が重視しているのは、市街化調整区域の存在だろう。釧路湿原の一部は国立公園として自然公園法の保護対象になっているが、湿原周辺部はそうではない。法規制が緩く、農地よりも開発しやすいのだ。こうした制度的背景は見過ごされがちだが、本質的には「制度の隙間を活用した開発」だと言えるだろう。
しかし、タンチョウやキタサンショウウオたちにとって、公園かどうかは関係ない。彼らが営巣し、繁殖し、日々の移動を行う空間として、湿原の連続性は保たれるべきだ。目の前に広がる風景は、ただの土地ではなく、命の記憶が刻まれた場所なのである。私たちの未来に残さなければならない。
──こうしたニュースに触れていると、別の話題が目についた。埼玉県行田市で、人気アニメ『鬼滅の刃』をモチーフにした巨大な田んぼアートが話題となっているという。色の異なる稲を植えることで描く田んぼアートは、2008年から始まり、水田約2.8ヘクタールのキャンバスは、世界最大としてギネス記録にも認定されたそうだ。
自然と人間の営みの境界が曖昧になりつつある今、私たちが「公共」として何を大切にし、何を記録し、何を保護していくのかが問われている。釧路湿原にメガソーラーを建てるという選択肢には、「制度の隙間」を巧みに突いた経済合理性があり、一方、行田の田んぼアートには、農の営みを通じた地域文化の発信という「制度に包摂された創造」がある。
前者は自然が“使われる”ことで公共性を喪失する例であり、後者は自然が“生かされる”ことで公共性が拡張していく例なのではないか。どちらも制度に依存し、制度を活用している。だがその制度が、どのような価値を風景に刻み、社会の記憶として残していくのかは、私たち一人ひとりの選択と、制度設計への関与にかかっている。
「行田市観光NAVI」より
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