【今日のタブチ】Netflix作品に観る、日本×アメリカ「ドキュメンタリー」構造の違い――「放送」から「配信」へ……語りの場が変わる今
最近、配信発のドキュメンタリーにハマっている。特にNetflixの作品は、時間と資金を惜しまず、構成・演出・編集に至るまで丁寧に作り込まれている。中でも印象に残ったのが、『アメリカン・マーダー ギャビー・ペティート殺人事件』と『アメリカン・マリッジミステリー 密室の3人に起きたこと』だ。
『アメリカン・マーダー ギャビー・ペティート殺人事件』は、2021年にアメリカで起きた若いカップルの失踪・殺人事件を追った作品だ。ギャビー・ペティートとその婚約者ブライアン・ローンドリーが、キャンピングカーで全米を旅する様子をSNSで発信していたことから、事件の発覚と展開がリアルタイムで共有されていった。ギャビーが突然失踪し、ブライアンが一人で帰宅したことから疑惑が深まり、やがてギャビーの遺体が発見される。ブライアンはその後、行方をくらまし、最終的に遺体で発見された。事件の全貌は、SNS上の映像、LINEのやり取り、YouTubeの旅ログなどを通じて再構成されていく。
この作品では、加害者と被害者の映像が豊富に残っていることにまず驚いた。SNS時代だからこそ可能になった構成だ。二人が投稿した動画、LINEのやり取りなどが、事件の前後を生々しく再現する。とりわけ、加害者とされるブライアンの行方を追う過程では、大衆が監視者となり、ネット上で情報を共有・通報する展開が描かれる。まさに「群衆による捜査」がリアルタイムで進行する様は、現代的であり、ドキュメンタリーの新しい地平を感じさせた。
ただし、インタビュー対象は限られており、公正性や多角的検証という点では課題も残る。とはいえ、証言可能な人物が限られる以上、これは仕方がない制約とも言えるだろう。番組は、私に気づきや新しい知識も与えてくれた。「アメリカでは、女性の約半数が身近な人からのDVに悩んでいる」という事実や、「失踪白人女性症候群(Missing White Woman Syndrome)」という言葉だ。これは、白人女性の失踪事件がメディアで過剰に報道される傾向を指す概念で、報道の偏りや社会的関心の不均衡を問い直す契機となる現象を指す。
番組の最後にギャビー・ペティート基金が設立され、DV被害者支援の活動へと繋がっていく展開は、希望の余韻を残す構成だった。暗い気持ちのまま終わる「イヤミス」ではないところが秀逸だと感じた。
『アメリカン・マリッジミステリー 密室の3人に起きたこと』は、2015年にアメリカ・ノースカロライナ州で起きた、アイルランド人男性ジェイソン・コーベットの殺害事件を追う作品。ジェイソンは、最初の妻を病気で亡くした後、アメリカ人女性モリー・マーテンスをベビーシッターとして雇い、やがて恋に落ちて結婚。家族でアメリカへ移住するが、ある夜、モリーとその父トーマス(元FBI捜査官)との口論の末、ジェイソンは自宅で惨殺される。通報者はトーマスで、正当防衛を主張するが、現場の状況や法医学的証拠はその供述と食い違っていた。事件後、モリーとトーマスは第2級殺人罪で有罪判決を受けるが、再審を経て司法取引により刑期が短縮され、釈放される。親権を巡る争いや、子どもたちの証言操作疑惑など、事件は複雑な家族の力学を浮き彫りにする。
この作品もまた、過去の凄惨な事件を振り返る構成だった。特筆すべきは、殺人の判決が出た後の被告人モリー・マーテンス・コーベットへのインタビューである。日本の感覚では躊躇されがちな演出だが、アメリカでは「加害者の語り」もまた重要な構成要素とされる。語ることの倫理、語らせることの構造——日本とアメリカ、両国間の違いが浮き彫りになる。
こうした作品群は、アメリカ的な構造を持つ。事件のセンセーショナルさ、語りのドラマ性、そして「真実とは何か」を問い続ける姿勢。実際、アメリカでは「真の犯罪ドキュメンタリー」の視聴者エンゲージメントが近年43%増加しているというデータもある。この数字は、単なるジャンル人気の上昇ではなく、「放送」から「配信」へと語りの場が移行したことで、視聴者の指向性そのものが変化していることを示している。語りの制度が変われば、語りに対する関わり方も変わる。今の視聴者は、語りに巻き込まれ、選び、時に語り手の位置に立つ。そうした構造の変化が、エンゲージメントの上昇というかたちで可視化されているのだ。
現在、ドキュメンタリーの視聴者の大半は、テレビではなくストリーミングプラットフォームを通じて作品に触れている。NetflixやHuluなどがオリジナルドキュメンタリーに多額の投資を行い、語りの自由度と構成の柔軟性を最大限に活かすことで、視聴者の能動性を引き出している。語りの密度と、視聴の選択性——この二つが交差する場所に、今のドキュメンタリーの熱がある。
ストリーミングは、視聴者が自ら選び、巻き込まれ、語りに参加する場を提供する。アルゴリズムによって“見たいもの”が提示されるだけでなく、“見せたいもの”が制作者によって精緻に設計される。この双方向性が、犯罪ドキュメンタリーというジャンルにおいて、視聴者の関与を深めている。
私がテレビ業界に入ったころは、「ドキュメンタリー=テレビ」だった。映画はハードルが高く、発信の場としてはテレビが唯一の現実的な選択肢だった。しかし、今や状況は一変した。語りの場は、テレビという制度の外側に広がり、より開かれた構造へと移行している。
この変化は、単なる技術革新ではない。語りの倫理、構成の設計、視聴者との距離感——それらすべてが再編されている。配信ドキュメンタリーは、制作者の構成力と倫理観が試される場であり、同時に視聴者の「問いを持つ力」も問われる場なのだ。
語りの自由とは何か。
真実を伝えるとはどういうことか。
配信ドキュメンタリーは、私たちの“見る力”を試しているのかもしれない。
「ワンスクリーン」HPより