【活動報告】「かくれキリシタン」研究のシンポジウムに登壇――『絹のオラショ』から紐解く《共生》と《未来》へのヒント

今日は、本務先の桜美林大学の学内学術研究費による「かくれキリシタン」研究の一環として、シンポジウムに登壇した。「フランシスコ教皇から託された使命を果たすために~潜伏キリシタンの遺産の継承に向けて~」というタイトルの禁教期のキリシタン研究会上智大学キリシタン文庫の共催による企画である。会場は上智大学・四ツ谷キャンパスの教室だった。新聞記者、メディア関係者、研究者、キリスト教関係者など、約200名が参加した。
私は、研究映像『絹のオラショ(今日の御志き)の解読・映像化』の上映と解説をおこなって、併せて講演も実施した。この映像は、長崎・五島列島の奈留島に残る“絹に書かれた”祈りの言葉「オラショ」を読み解き、映像化したものだ。絹という素材に刻まれた祈りの痕跡が、言葉以上に信仰の重みを伝えてくる。作るにあたっては、何百年も守り続けたかくれキリシタンの人々の意志を画面の奥に潜ませるように心がけた
そもそも、なぜ自分が「かくれキリシタン」を研究テーマに選んだのか。改めて振り返ると、それは30年近くにわたって、世界の発展途上国で置き去りにされ、現代社会から見捨てられてきた少数民族という「マイノリティ」を追い続けてきた経験に行き着く。フィールドワークを通じて彼らの声を拾い、ドキュメンタリー番組という映像作品に昇華してきた。かくれキリシタンもまた、同じように歴史の片隅に追いやられながら、静かに祈りを守り続けてきた存在である。彼らは、キリシタンからも「異端」と言われ、地元の仏教徒からも特別視されてきた。その孤立と誤解の中で、それでも祈りを手放さなかった人々の姿に、深い共鳴を覚えた。だからこそ、彼らの“真実の”物語に惹かれたし、映像という手法でその思いを伝えたいと考えた。その思いが伝わったのか、上映後には多くの質問が寄せられた。それらに答えることで、自身の研究を振り返る機会となり、手応えと同時に新たに生じた課題を再確認する貴重な時間になった。
特に印象に残ったのは、かくれキリシタンという歴史的マイノリティの存在が現代の“多様性”の社会にどう受け止められるかという「問い」への反響だった。活発な意見や感想を出してくれる来場者と議論をすることで、数百年前の“日本固有の”文化が、遠い過去の話ではなく今を生きる私たちの足元にあるのだと確信した。
格差や分断が進む社会の中で、異なるものとどう共にあるべきか
たとえば、都市と地方の教育機会の差、非正規雇用の拡大による生活の不安定化、外国籍住民への制度的な壁、災害時の情報格差など、身近なところに分断の兆しがある。
世界に目を向ければ、移民排斥や宗教的対立、ジェンダーや人種をめぐる分断が、政治やメディアの言葉を通じて日常に浸透している。
「日本ファースト」という言葉が象徴するように、自国民の利益を優先するという考え方は、ある種の自己防衛として理解できる。しかしそれが、他者への無関心や排除につながっていないか。誰かを守るために、誰かを見捨ててしまっていないか。
そうした問いが、かくれキリシタンの歴史と重なって見えてきた。
歴史を振り返ることは、過去を検証するためだけの営みではない。そこにある問いや葛藤を、今の社会に照らし、未来へとつなげていくための営みである。かくれキリシタンの物語もまた、過去の出来事として閉じるのではなく、今を生きる私たちの選択や態度を問い直す鏡になりうる。
信仰や文化の継承をめぐる営みは、単なる歴史研究ではなく、社会のあり方そのものを照らす。少数者が声を上げられない状況をどう変えていくか。異なる価値観が共存できる場をどう築いていくか。そのヒントは、数百年ものあいだ祈りを守り続けた人々の姿の中にある。
今後は、「かくれキリシタン」研究を起点に、宗教的寛容や共存の可能性を探る「宗教多元主義」の視点を導入する。チベットにも、数十年ぶりに訪れたいと考えている。
信仰がもたらす平和的価値を、映像や教育を通じてどう伝えていけるか。
歴史を語ることが、未来を考えることにつながるように。その方法を、これからも探っていきたい。

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