【活動報告】東京新聞「こちら特報部」の記事にコメントが取り上げられた――『102回目のプロポーズ』から見えてくるドラマにおける“リメイク”や“続編”が増える理由

昨日13日の東京新聞「こちら特報部」の特集記事に、コメントが取り上げられた。「こちら特報部」は、しっかりとした取材とタイムリーな切り口で、骨太な記事を送り出している稀有な存在だ。報道の現場が、単なる速報性ではなく、問いを立てる力を持ち続けていることに、改めて敬意を抱く。
今回の企画は急遽立ち上がったようで、前日の12日、ゼミ合宿で学生の撮影引率をしている最中に、記者の方からインタビュー打診の連絡があった。学生のアテンドはなかなか気を遣うので、メールを見た瞬間「これは無理かもしれない」と思ったが、ちょうど撮影場所の食事処との約束まで少し時間が空いたため、電話で取材に応じることができた。
テーマは「なぜ最近、テレビのドラマにリメイクものや続編が多いのか」というものだ。ちょうどフジテレビが『101回目のプロポーズ』の続編として『102回目のプロポーズ』の制作を発表したというタイミングに合わせた企画だった。オンライン記事は会員限定記事なので、見られない方のために、内容を抜粋してお知らせしたい。
『101回目のプロポーズ』は1991年に放送され、最高視聴率36.7%を記録した伝説的ドラマだ。武田鉄矢氏演じる中年男性の不器用で真っ直ぐな恋愛模様は、当時の空気感と重なりながら、多くの視聴者の記憶に刻まれている。今回の『102回目のプロポーズ』では、主人公の娘世代を軸にした新たな三角関係が描かれるという。主演は唐田えりか氏と霜降り明星のせいや氏。唐田氏の恋人役を伊藤健太郎氏が演じる。SNSでは早くも賛否両論が巻き起こっている。
記事のなかで、私は「動画配信サービスとの連携は主流になりつつあり、内容が刺激的で話題性のあるものに狭まっている傾向がある」と指摘し、「新しいコンテンツが生まれにくいなか、爆発的な視聴率を獲ったドラマが注目されがちである」と危惧した。そして、テレビは放送文化であるから幅広い視聴者に向けて多様性のある作品作りをしていかなければならないと語り、視聴率やSNSでのバズを重視するあまり、企画が偏重してゆくことへの懸念を示した。そのうえで、地上波の制約を逆手に取るような斬新な発想が、まだ十分に試されていない点も指摘した。これは、単なる編成戦略の話ではなく、視聴者とメディアとの距離感や、コンテンツ消費の習慣化とも深く関係している。
今回のキャスティングや企画に対しては、SNSで、「フジは過去の栄光と決別すると宣言したのに、なぜこの期に及んで大多亮氏の作品の続編を作ろうとするのか?」「過去に不祥事や問題を起こした人物(キャスト)をなぜあえて起用するのか?」といった批判も見られる。
こうした意見については、いくつかの視点から慎重に検証する必要がある。まず、ドラマ制作は企画から放送までに長い時間がかかる。今回の『102回目のプロポーズ』も、例のフジテレビ問題が表面化する前に立ち上がっていた可能性が高い。そういった制作のタイムラインを鑑みずにただ批判するのは、少し早計ではないだろうか。
また、芸能人や俳優の不祥事に対する批判については、近年あまりにも“不寛容”になっているように感じる。もちろん、法や社会規範に反した行為は責められても仕方がない。だが、社会的制裁と再起の機会のバランスが取れずに、過剰になり過ぎている。メディアは「再起の物語」を描く力も持っているはずだし、視聴者もまた、その可能性に目を向ける余地がある。誰かが過ちを犯したとき、その人間を排除することで安心を得るのではなく、再び立ち上がる姿に何を見出すか――その問いを、私たちはもっと丁寧に扱うべきではないか。
ゼミ合宿とメディア対応が重なるという、なかなか慌ただしい一日だったが、こうして教育と社会の接点を言葉にできる機会をいただけたことに感謝している。現場での実践と、メディアの問いが交差する場所にこそ、未来への教育の可能性がある。今後も、そうした場所で言葉を紡いでいくつもりだ。

「AV Watch」HPより
ⓒフジテレビ



のコメントとして「続編やリメイクが増える背景には、視聴者の“安心感”への欲求と、制作側の“リスク回避”がある。新規企画よりも既存IPの方が、数字を読みやすいからだ」といった視点が紹介された。これは単なる編成戦略の話ではなく、視聴者のメディアとの距離感や、コンテンツ消費の習慣化とも深く関係している。

一方で、今回のキャスティングや企画に対して、SNSでは「フジは過去の栄光と決別すると宣言したのに、なぜ大多亮氏の作品の続編を?」「不祥事を起こした人物をなぜ起用するのか?」といった批判も見られる。

こうした声に対しては、いくつかの視点から考える必要がある。まず、ドラマ制作は企画から放送までに長い時間がかかる。今回の『102回目のプロポーズ』も、例のフジテレビ問題が表面化する前に立ち上がっていた可能性が高い。制作のタイムラインを踏まえずに批判するのは、少し早計ではないか。

また、不祥事に対する批判が、近年あまりにも不寛容になっているように感じる。社会的制裁と再起の機会のバランスが欠けているのではないか。メディアは「再起の物語」を描く力も持っているはずだし、視聴者もまた、その可能性に目を向ける余地があるのではないか。誰かが過ちを犯したとき、その人間を排除することで安心を得るのではなく、再び立ち上がる姿に何を見出すか――その問いを、私たちはもっと丁寧に扱うべきではないか。

現場の合宿とメディア対応が重なるという、なかなか慌ただしい一日だったが、こうして教育と社会の接点を言葉にできる機会をいただけたことに感謝している。現場での実践と、メディアの問いが交差する場所にこそ、教育の可能性がある。今後も、そうした場所で言葉を紡いでいきたい。


『101回目のプロポーズ』は1991年に放送され、最高視聴率36.7%を記録した伝説的ドラマ。武田鉄矢演じる中年男性の不器用で真っ直ぐな恋愛模様は、当時の空気感と重なりながら、多くの視聴者の記憶に刻まれている。今回の『102回目のプロポーズ』では、主演に堤真一と高畑充希を迎え、現代的な設定で再構築されるという。SNSでは早くも賛否両論が巻き起こっている。

記事では、私のコメントとして「続編やリメイクが増える背景には、視聴者の“安心感”への欲求と、制作側の“リスク回避”がある。新規企画よりも既存IPの方が、数字を読みやすいからだ」といった視点が紹介された。これは単なる編成戦略の話ではなく、視聴者のメディアとの距離感や、コンテンツ消費の習慣化とも深く関係している。

一方で、今回のキャスティングや企画に対して、SNSでは「フジは過去の栄光と決別すると宣言したのに、なぜ大多亮氏の作品の続編を?」「不祥事を起こした人物をなぜ起用するのか?」といった批判も見られる。

こうした声に対しては、いくつかの視点から考える必要がある。まず、ドラマ制作は企画から放送までに長い時間がかかる。今回の『102回目のプロポーズ』も、例のフジテレビ問題が表面化する前に立ち上がっていた可能性が高い。制作のタイムラインを踏まえずに批判するのは、少し早計ではないか。

また、不祥事に対する批判が、近年あまりにも不寛容になっているように感じる。社会的制裁と再起の機会のバランスが欠けているのではないか。メディアは「再起の物語」を描く力も持っているはずだし、視聴者もまた、その可能性に目を向ける余地があるのではないか。誰かが過ちを犯したとき、その人間を排除することで安心を得るのではなく、再び立ち上がる姿に何を見出すか――その問いを、私たちはもっと丁寧に扱うべきではないか。

現場の合宿とメディア対応が重なるという、なかなか慌ただしい一日だったが、こうして教育と社会の接点を言葉にできる機会をいただけたことに感謝している。現場での実践と、メディアの問いが交差する場所にこそ、教育の可能性がある。今後も、そうした場所で言葉を紡いでいきたい。

昨日13日の東京新聞「こちら特報部」の特集記事で、コメントが取り上げられました。「こちら特報部」は、しっかりとした取材とタイムリーな切り口で、骨太な記事を送り出している稀有な存在だ。今回の企画に関しては、急遽決まったようで、前日の12日に私がゼミ合宿で学生の撮影引率をおこなっている最中に、記者の方からインタビュー打診の連絡があった。
学生のアテンドは結構大変なので、メールを見た瞬間「無理かな」と思ったが、ちょうど、撮影場所の食事処と約束したタイミングまで待ち時間ができたので、電話で取材に応えた。
テーマは、なぜ最近テレビ局に「リメイクもの」や「続編」が多いのかということだった。ちょうど、フジテレビから『101回目のプロポーズ』の続編として『102回目のプロポーズ』の制作が発表されたというタイミングに合わせた企画だった。→このあと、『101回目のプロポーズ』の説明、視聴率が爆発的であったことなど→『102回目のプロポーズ』の概要説明やキャストについて→そして私のコメントを記事から抜粋して紹介→さらに突き進めて、『102回目のプロポーズ』のキャストに対してSNSなどで「なんで、フジは過去の栄光と決別すると宣言しておきながら、しかも大多亮氏が手掛けたドラマの続編をやろうとするのか?全然反省していないのではないか?」という批判が多く上がっていることや、「なんで不祥事を起こした人間を起用するのか」という疑問の声が寄せられていることを指摘。→持論を展開。前者は、ドラマは企画段階から制作までに時間がかかる。この企画は、例のフジテレビ問題が発覚する前に企画されていた可能性があることを指摘。後者は、こういった批判はあまりにも不寛容であることを主張。それをしっかりと理論的に説明する

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