【今朝の新聞から】静岡一家強盗殺人事件で死刑が確定した袴田巌氏の再審判決を「無罪」と言い切る論評を掲載した東京新聞の意図は何か?
静岡県で1966年6月、一家4人が殺害された強盗殺人事件で死刑が確定した袴田巌氏の再審判決が26日、静岡地裁で言い渡される。それに先立って今日、ルポライターの鎌田慧氏がコラムに書いていた。
26日14時。静岡地裁で袴田巌さんに無罪判決が出される。
この書き出しを読んで、驚いた。
なかなか、検察と弁護側が争っている最中、しかもまだ進行中の裁判に関して、判決の予測を断定的に書くことはない。もし、筆者がそう書いたとしても、新聞社はそれを掲載することはまずないだろう。
これは、新聞というのは「日本新聞協会」が掲げている「新聞倫理綱領」に従って責務を全うしているからだ。そのなかに、5つの柱がある。「自由と責任」「正確と公正」「独立と寛容」「人権の尊重」「品格と節度」である。
今回の鎌田氏の記載は、「正確と公正」の本文中にあるように「記者個人の立場や信条に左右されてはならない」という点において、正確さと公正さを欠いている。だが、この本文中には次のような記述もある。「論評は世におもねらず、所信を貫くべきである」。この主義を尊重するなら、鎌田氏の論評は所信を貫いているとも言える。
また、「独立と寛容」の本文中には「新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する」という宣言も見える。
「静岡地裁で袴田巌さんに無罪判決が出される」という文章を読んでぶったまげた私は、肝が小さい、寛容性のない人間なのだろう。「東京新聞は、どういう意図でこの記事を掲載したのか」と思ってしまったからだ。
私は、自らの「過剰なコンプライアンス」によって、知らず知らずのうちにメディアがあるべき「自由な表現」にリミッターをかけてしまっていたのだ。反省せねばならない。
同時に、そういったことに気づかせてくれたことに感謝した。読者に新しい気づきを与える。それでこそ、メディアと言えるのではないだろうか。
「毎日新聞デジタル」より