【昨日のタブチ・今日のタブチ】袴田巌氏、再審無罪判決の翌朝の新聞報道に「メディアの矜持」を垣間見たー「冤罪を生んだ責任」は誰にあるのか?
2024年9月26日、この日は日本の司法にとって歴史的な日となった。
死刑が確定していた袴田巌氏の再審公判で、静岡地裁は無罪の判決を言い渡したからだ。これは、検察や警察の責任を厳しく断じるものだ。
私は、「警察や検察は万能ではない」という主義に基づき、ドラマ『ジャンヌの裁き』を企画した。これはこのブログでも何度か取り上げているので皆さんはご存知だと思うが、検察の不起訴を不当とする「検察審査会」の物語だ。この作品の主題も「検察の責任」であり、「正義とは何か」を視聴者に問いかけるものだった。番組公式HP☛https://www.tv-tokyo.co.jp/jeannenosabaki/
そしてこの判決を伝える翌日の東京新聞を見て、私は少なからず驚いた。一面の左側に大きな囲みで「袴田さんにおわびします」という記事が掲載されていたからである。同じように、この記事を見て驚かれた方は鋭い。記事は以下のような文章で始まっている。
ー事件当時、東京新聞は袴田巌さんを犯人と断定する報道をしました。袴田さんと家族の人権、名誉を傷つけたことを深くおわびいたします。
そして後段では、以下のようにも記している。
ー逮捕段階では罪が確定していないのに、袴田さんを「犯人」と報道した本紙にも、冤罪を生んだ責任はあります。
この記事掲載はおそらく、再審報道で初めてのことだ。この勇気を「英断」であると称えたい。
だが、画期的な東京新聞のおこないは、ほかの新聞において同様であったわけではないことは、普段の各紙の報道姿勢を観ていれば充分に推察できる。私は、こういった「潔さ」や「中立性」が気持ちよく、東京新聞を愛読している。
私は『混沌時代の新・テレビ論』のなかで、テレビ局が報道する犯罪ニュースの危険性について警鐘を鳴らしていた。以下に抜粋する。
ニュースが読者のみなさんは、テレビのニュース番組でよく「○○事件の犯人は〇〇でした」といっ
た表現を目にするだろう。凶悪な事件の結末をセンセーショナルに報道し、かき立て、世間の耳目を集めるのがその手法だ。これを見た多くの視聴者は「あの事件もついに解決したか」とか、「ようやく犯人が捕まった」と安堵の胸をなでおろす。同時に「ざまあみろ」や「結局、逃げ切れないで捕まったな」と思って溜飲を下げるのである。
問題はここにある。
テレビは被疑者が警察に逮捕されたという事実のみでその被疑者を犯罪者と決めつけ、事件はそれで終了したかのように扱う。実際にはその被疑者が犯人かどうかは、その後の取調べや裁判などのさまざまなプロセスを経て初めて判明するはずだ。被疑者の段階では、誰が犯罪者かは警察にすらわからないのである。そうであるにもかかわらず、テレビは被疑者を犯罪者として扱って曖昧なニュースソースによる情報を発信することで世間の注意を引いて、勝手な解釈を押しつける。その結果、多くの視聴者はそれを信用してテレビの解釈を「事実」として受け止める。
今回の東京新聞の記事「袴田さんにおわびします」のなかにある「逮捕段階では罪が確定していないのに、袴田さんを「犯人」と報道した」ことを反省する文章はまさしく、テレビ局や新聞などのマスメディアが陥る「落とし穴」を示唆しているのである。
「東京新聞オフィシャルショップ」より