【今日のタブチ】卑猥な部分の「ぼかし」は「芸術性」や「公益性」を損ねるのか~日本と海外の「ドキュメンタリー作品」の考え方の違い
2016年にアメリカで公開された映画を日本で流すことにおいて、配給元と映倫(映画倫理機構)がもめている。
映画は『メイプルソープ:その写真を見る』という作品だ。配給元のアップリンクの浅井隆社長の「note」によると、2008 年に最高裁判所で出版の自由が認められた『メイプルソープ写真集』(アップリンク発行)の写真が紹介されているドキュメンタリー作品である。https://note.com/asai_takashi/n/ncdc8393b3d0d
浅井氏は、このサイトで以下のように主張している。
映倫は「R-18」のレイティングにするには男性ヌードにボカシを入れろと言っています。アップリンクとしては、最高裁で表現の自由を勝ち取った写真作品及び類似作品にボカシをいれずに「R-18」のレイティングで上映をさせてほしいと主張しました。しかし、再々審査の要求は却下されました。アップリンクの立場としては、映倫審査に反対しているわけではなく、映画は観るまでに内容がわからない表現形態であるのでガイドラインとしてのレイティングをつけることには賛成という立場です。
映倫が問題視したのは、男性器や肛門が写り込んだ15点の写真が映る場面だ。これらは2008年の最高裁の判決で「好色的興味に訴えるものと認めるのは困難」として「わいせつ性はない」と結論づけられている。だが、今回映倫はあくまでも最高裁の判決は写真集に対して出されたもので、「写真集とは別の表現物に掲載したときの法的評価は不確定」として、映画のレイティングを「区分適用外」とした。「区分適用外」のレイティングを受けてしまうと、各地での上映は困難になる。浅井氏はこの判断を不服として昨年11月、映倫に損害賠償を求めた。
両者の言い分は十分に理解できる。映倫の判断も「検閲的」ではあるが、立場的にはそういう判断をせざるを得ないという事情もよくわかる。
ここで私が指摘したいのは、日本と海外の「ドキュメンタリー作品に対する認識」の違いだ。
日本ではドキュメンタリー作品であったとしても、「コンプライアンス遵守」や「プライバシー保護」などを重要視する。だが、海外とくにアメリカでは「公益性」や「社会性」「芸術性」を最重要に考える。映画は「芸術性」が高い文化とみなされるため、「作り手の主義・主張」が優先される。今回のような「ぼかし」は芸術性を損ね、作り手の人格を否定するものとされるのである。
現在、アカデミー賞のショートリストに選出されている伊藤詩織氏の監督作品『Black Box Diaries』においても同様の議論が展開されている。
伊藤氏と元TBS記者をホテルまで乗せたタクシー運転手の「顔出し」インタビュー映像や捜査に当たった警察官との電話音声記録などは、おそらく正式な撮影許可を取ってはいない。伊藤氏の民事訴訟の代理人であった元弁護人の西廣弁護士との会議シーンも「ぼかし」をかけずに使用している。これらの点について、西廣弁護士側からは修正を求める申し出が出されているが、伊藤氏側は応じようとしない。
この伊藤氏の行動に対して「どうして?」と思う人も多いのではないだろうか。
ここでも「コンプライアンス」や「プライバシー」と「公益性」や「社会性」の天秤が測られている。日本のドキュメンタリーの考え方は「コンプライアンスやプライバシーを守りながら、表現できる範囲で表現する」だが、海外は違う。
「個人の権利が多少侵害され犠牲になったとしても、社会的や公益性があることに関してはちゃんと表現すべき」と考える。この「公共>個人」の考え方はドキュメンタリーに限ったことではない。それはアメリカの戦争映画を見ればよくわかるだろう。
この社会大原則に従えば、ドキュメンタリー作品においても作り手が自分の表現や主張したいことが〝ちゃんと伝わっていない〟作品は失敗なのだ。
そう考えると、伊藤氏のおこないも今回の浅井社長の主張も理解できるのではないだろうか。
「note浅井隆氏ブログ」より