【今日のタブチ】重要文化財に指定された「太陽の塔」は「神への懺悔」なのか?!~ドキュメンタリー映画『太陽の塔』を本学・桜美林大学の授業「映画演出研究」で取り上げる理由

日本万国博覧会(EXPO’70・大阪万博)のテーマ館の一部として建造され、万博終了後も引き続き万博記念公園に今も残る、太陽の塔
1970年といえば、私は小学1年生。兵庫県が実家の私は、遠足で万博を訪れ、心を躍らせながら「すごいなぁ」と太陽の塔を見上げた記憶がある。エスカレーターで登りながら見た、太陽の塔の内部のモニュメントにはひたすらあっけにとられた記憶がある。6歳の子どもには、あの独特な「世界観」は難しかったか。
そんなワクワク感がまったくないのが、今開催されている大阪・関西万博だが、この批判や私見は今日の論旨ではないのでさて置く。
太陽の塔の作者は、ご存じのように、80年代「芸術は爆発だ!」という言葉で、一躍世間の注目を浴びた岡本太郎氏だ。「凡人の理解を超えた変わり者」というタレントのイメージもあるが、画家・写真家・彫刻家・建築家・思想家の顔を持ち、芸術家という言葉にはとうてい収まり切らないスケールの大きな人物だ。
そして、今日このブログでお話ししたいのは、ドキュメンタリー映画『太陽の塔』のことである。
本作は、岡本太郎氏に影響を受けた人々をはじめ総勢29名(またこれが、錚々たるメンバーですごいのだが)へのインタビューをおこなって、芸術論だけでなく、社会学・考古学・民俗学・哲学など様々な視点から岡本太郎氏および太陽の塔の実像に迫ろうとするものだ。そして最終的には、岡本氏が太陽の塔に込められた〝真の〟メッセージや意図を看破することを目的としている
監督はこの作品を撮るまではMVやCMを手がけ、カンヌ広告祭でヤングディレクターズアワードなど3部門を受賞するなど、当時、日本を代表する若手映像クリエイターであった関根光才氏。関根氏は、今年の6月公開予定の、2020年2月に日本で初となる新型コロナウィルスの集団感染が発生した豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号を舞台にした災害派遣医療チーム(DMAT)の奮闘を描いた映画『フロントライン』も手掛けている。
ドキュメンタリー映画『太陽の塔』はあえてナレーションを使わず、基本的にはインタビュー構成で繋がれているが、ときにフィクションの映像がはさみ込まれる。その手法が前衛的で、太陽の塔や岡本太郎にマッチしている。
そして私はこの映画を、本学・桜美林大学の授業「映画演出研究」の教材に使用している。「映画演出研究」は、私が厳選した30本ほどの映画作品(フィクション、ドキュメンタリーなどさまざま)のなかから受講生が自由に映像を選び出し、その演出について自ら「気づき」「着目した」手法をプレゼンしてもらってその内容について皆で議論をするという刺激的な内容だ。
それらの作品群のなかにドキュメンタリー映画『太陽の塔』を入れているのには、理由がある
岡本氏が太陽の塔を創った目的は、当時の高度成長期に「時代のシンボル」とされていた「進歩」や「調和」への抗いであると私は理解している。岡本氏は、小学1年生の私が感じたような「理解不能」という感覚を呼び起こすことで、人々の内にある「可能性」を引きずり出そうとした。見る者に「不満」を抱かせることで、「これはいったい何なんだ?」という疑問を起こさせるのだ。
それは私が本学の授業でいつも伝えていることと同期する。
ネット情報の氾濫によってあたかも「考えるな!」と言われているかのような現代において、「考え続けることが大事だ」「考えることをとめるな!」と私は学生たちに言い続けている。岡本氏が太陽の塔を通じて、伝えたかった思いも同じだったのではないか。そう感じるから、そういう思いを感じ取ってほしいから、そしてそういう感覚を感じ取れるような想像力や感性を涵養してほしいから、私はこの作品を「映画演出研究」の授業の視聴ラインナップに加えている。
ドキュメンタリー映画『太陽の塔』の後半は、私の大好きなチベット仏教の世界に入ってゆく。太陽の塔は、いわばチベット仏教の「曼荼羅」と同じだという説は腑に落ちた。「神への懺悔」だという解釈である。妙に納得した。
ドキュメンタリー映画『太陽の塔』はAmazonPrimevideoなどで見られる。ぜひ、ご覧になってみてほしい。

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