【今日のタブチ】AIが「共犯者」になる双方向ドラマの演出…生成AIは「オワコン」テレビの救世主となるのか?

生成AIの登場により、物語の語り部やキャラクターの一部をAIが担うようになってきている。視聴者がAIの返答を手がかりに真犯人を推理するような双方向型ドラマが海外で実験されはじめている。視聴者の選択によって展開が変わったり、AIキャラクターがSNSでリアルタイムに反応する演出も登場している。
以上のような最近の傾向を見ていて私が感じるのは、2つの強烈な違和感だ。
ひとつ目は、なぜ「双方向」がここまでもてはやされるのか、ということだ。テレビ番組の企画の際にも「一方通行はだめだ」「視聴者との双方向で取り込む工夫が必要」という言葉が飛び交うが、本当に「双方向」は必要なのか。
そこには、視聴者の参加が「エンゲージメント(関与)」を高めるというマーケティング的発想がある。SNS時代の「共感世界」においては、「関与している」感が価値になる。そこには、テレビ離れを食い止めるための「巻き込み型演出」への期待もあるだろう。視聴者の関与が深いほど、広告効果やブランド記憶が高まると考えられるからだ。しかし、ここには本質的な問題が潜んでいる。
果たして「エンゲージメントが高い=良い番組」なのか。また、「参加させること」が本当に〝視聴者のため〟なのか
双方向性やエンゲージメントが「目的化」されると、視聴者の内面に踏み込みすぎる演出や、過剰な「巻き込み」が生まれるリスクもある。つまり、「関与させること」自体が倫理的な問いになりうるのだ。
「双方向」は本当に「選択肢」を与えているのか。「選ばされた感」を演出しているだけではないのか。または、「情報操作」という考え方はないのか。
そしてもうひとつの違和感は、これも近年のテレビの現場でよく聞かれる会話だ。「AIをうまく活用しよう」「AIに何をやらせたら仕事の効率化が図れるかを考えろ」といったような、「AI重宝論」が盛んに繰り広げられる。その話を聞くたびに、私は「AIに媚び過ぎなのではないか」「AIを過信、過大評価し過ぎていないか」と思ってしまう。
はっきり言おう。私は、テレビの現場にAIは不要だと考えている。
そこには、テレビ制作における私のポリシーというようなものが関係している。また、テレビ番組における物語とは、そもそも「受け取る」ものなのか、「共に作る」ものなのか・・・そういった制作根本論にも関わってくる。
生成AIの功罪に関しては、これまで多くの国で臨床実験がおこなわれてきた。
有名なのは、スイス・チューリッヒ大学の研究チームが、2024年から2025年に、Redditの議論掲示板「r/changemyview」でAIに人間になりすまして参加させる実験を実施。AIは投稿者の意見に反論し、どれだけ彼らの「心を動かせるか」を測定した。その結果、AIの説得成功率は人間の3〜6倍で、特にパーソナライズされたAIコメントは、説得率18%で人間が行った場合の平均2.7%をはるかに凌駕していた。また、誰一人として「相手がAIだ」と気づかなかったという。
しかし、その後、「語り手の正体」が不明なまま、感情的共感や信頼が形成されていたという事実が、倫理的に大きな波紋を呼んだ。AIが「性的暴行の被害者」や「家庭内暴力のカウンセラー」などの架空の人格を演じ、AIであることを明かさずに議論に参加したことで、edditコミュニティが激しく反発した。
AIが「語り手」として登場したテレビ番組の具体事例もある。日本テレビは、東京五輪や箱根駅伝などの中継で、AIが生成したナレーションやCG合成を導入。AI「エイディ(AiD)」が映像を解析し、リアルタイムで選手名や順位、傾斜データなどを表示する演出を実現した。その際には、視聴者の反応として「情報が瞬時に出てくるのは便利」「人間の実況より正確」といった肯定的な声もあったが、一方で、「感情がこもっていない」「人間の熱量がない」といった無機質さへの違和感も散見された
NHKでは、AIアナウンサーがニュース原稿を読み上げる実験を実施。特に深夜帯や災害速報など、人的リソースが限られる時間帯での活用が進んでいる。こちらは「違和感がない」「むしろ聞き取りやすい」という実用性重視の評価が多かったが、「人間の声じゃないと緊急性が伝わらない」という感情伝達の限界を指摘する声も見受けられた
TBSでは、AIが映像素材を解析し、自動でハイライト編集や構成案を提示するシステムを導入。ナレーション原稿の草案もAIが生成するケースが増えている。番組のテンポや構成が「洗練された」と感じる視聴者もいる一方で、「どこか均質で、番組に個性がない」という声もあり、「語りの個性」の喪失が課題となっている
以上のようなことから、私はAIを使った双方向による「共犯関係的演出」は危険だと言いたい。
テレビがAIを使うとき、それは表現の拡張であるべきで、迎合ではないはずだ。AIは物語の「語り部」や「鏡」としては機能できるが、物語の「芯」や「倫理」までAIに委ねてしまうと、視聴者の想像力を奪う危険性が生じる。
双方向性は「手段」であって「目的」ではない。
AIは「演出装置」であって「主役」ではない。
AIが語り手になることで生じるのは、「誰が語っているのか」という信頼の構造の揺らぎだ。
視聴者は、“語り手の実存”に無意識に寄りかかっていたことに気づかされる
語り手が「誰でもない」とき、物語は「誰のもの」になるのか?
その問いは、AI時代のテレビが避けて通れない永遠の課題である。

「シーエスコミュニケーション」HPより
https://www.cs-com.co.jp/media/column/a59

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