【今日のタブチ】国会閉会中に「死刑」執行をするという「姑息さ」~政権が「統治の正当性」を演出するための舞台装置なのか?~そしてさらに「メディア報道の責任」を考える

先日、オウム真理教・松本智津夫の「娘」に生まれた松本麗華氏をフォーカスしたドキュメンタリー映画『それでも私は Though I’m his daughter』を見た際に、改めて「死刑制度」について考えさせられた。今日はそのことについて書きたい。
2025年6月27日、東京拘置所で約3年ぶりに死刑が執行された。最終的に「死刑事件審査結果」に法務大臣がサインをすることで、「死刑執行命令書」が作成され、死刑が執行される。現在の法務大臣は鈴木馨祐氏だ。死刑囚は白石隆浩だった。SNS(主にTwitter)で「死にたい」と投稿する若者に接触し「一緒に死のう」と誘い、自宅に呼び寄せ、性的暴行後、ロープで首を絞めて15歳〜26歳の男女9人(女性8人、男性1人)を殺害した。その残虐かつ自分勝手な犯行は許されるべきではない。だが、その犯罪の「許容性」「死刑制度の是非」は別物だ。
被害者感情の視点に立てば、死刑は「是」となるだろう。しかし、わたしはやはり以下の2点が気になる。
1.刑罰の最終性・・・一度執行された死刑は取り返しがつかない。冤罪リスクとのせめぎ合いがある。また、「事件の解明」が闇の中に葬られてしまうという危険性もあるだろう。
2.国家による生命の制裁・・・国家が個人の命を奪うことが倫理的に許されるのか、人権と統治権のバランスが問われる。
そして、今回6月に執行された死刑に関しては、私は別の大きな観点で疑問を持っている。それは、死刑が「国会閉会中」に執行されたということだ。私はその裏には、以下の2点が隠されていると推察している。
1.議論の回避:国会が開いていれば、死刑制度や執行の是非について議員や市民の間で議論が起こる可能性が高まる。閉会中ならば、その議論を避けられる。
2.政治的リスクの回避:死刑執行は世論を二分するため、政権にとってはタイミングが重要。閉会中ならば、野党やメディアからの追及を最小限に抑えられる。
もし上記の推察が事実であるならば、「議論を避ける姑息な手法」としか言いようがない。こうした執行のタイミングはまさに「舞台裏の操作」に見える。弁護士ドットコムの調査によると、死刑執行から3か月以内に国政選挙が行われたケースは過去30年で7回あった。これらのケースでは、支持率が低迷している時期に死刑が執行されていることが多く「統治の厳格さ」や「治安維持の姿勢」をアピールする政治的意図が疑われる。死刑執行は単なる刑罰ではなく、政権が「統治の正当性」を演出するための舞台装置となっている可能性がある。とくに選挙前や支持率低迷時には、「秩序の回復」「国家の威厳」を象徴する手段とされている可能性がある。今年の死刑執行は、石破内閣の支持率39%、都議選で自民党が議席減となったタイミングであった。これは単なる偶然だろうか。
そして、こういった政権の思惑や意図があるとするならば、私が最も重要視しているのは、それを報道するメディアにも責任があるのではないかという点だ。
死刑執行という国家の最終的な暴力行使に対して、メディアがどのように報じるかは、社会の「記憶」と「価値観」を形成するうえで極めて重要な責任を担っている。
1. 報道のタイミングと演出性
死刑執行は多くの場合、当日の午前中に突然報じられることが多く、事前の議論や検証が困難。これは「世論の反発を避けるための演出」ではないかと非難されることがあるが、メディアがその構造に加担している可能性はないのだろうか。
2. 報道の内容と語り口
多くの報道は「被害者感情」や「事件の凄惨さ」に焦点を当て、死刑制度そのものへの問いかけが希薄だ。事件の背景や加害者の人間性、再審請求の有無など、制度的・倫理的な視点が欠落する傾向がある。これは問題ではないか。
3. 過去の報道責任の不在
オウム事件では、TBSが坂本弁護士のインタビュー映像をオウム幹部に見せたことで、事件の一因を作ったとされる「TBSビデオテープ事件」があった。しかし、死刑執行後の報道では、メディア自身の過去の責任や構造的問題への自己批評がほとんど見られない
4. 冤罪報道との関係
3.にもかかわらず、報道機関は自らの構造的責任に対して「頬被り」しているという指摘もある。袴田事件や足利事件など、冤罪が明らかになったケースでも、メディアは捜査機関の発表を鵜呑みにして加担していたという批判がそれにあたる。もしそうだとすれば、メディアは単なる情報伝達者ではなく、国家の“舞台装置”の一部として機能している可能性がある
死刑執行を「秩序の回復」として報じることで、国家の正当性を補強する。一方で、制度の矛盾や倫理的葛藤には触れず、「感情の物語」として消費する。そんな報道に成り下がっているようでは、メディアとしての存在意義はない。そう肝に銘じるべきだ。

「日テレNEWS NNN」より

【今日のタブチ】国会閉会中に「死刑」執行をするという「姑息さ」~政権が「統治の正当性」を演出するための舞台装置なのか?~そしてさらに「メディア報道の責任」を考える” に対して2件のコメントがあります。

  1. シュイチュイ より:

    その後すぐに国政選挙はなかったけど、オウム死刑囚の一斉執行、これはまさにだね。その裏で、安倍政権は森友・加計問題をはじめとする政治スキャンダルを沢山抱えていて、その目線逸らしに他ならなかったね。だから死刑執行したなんてどこのメディアも安倍忖度教の熱烈信者だから物申すわけはなく、、、

    1. 田淵 俊彦 より:

      シュイチュイ様
      コメントありがとうございます。
      人の命を「目くらまし」に使うなど、とんでもない人たちです。
      オウムの死刑執行のときの官房長官は菅氏。それより前の2006年~2007年の第一次安倍内閣の時代に
      総務大臣として電波を牛耳っていた菅氏に骨抜きにされている特にテレビメディアは、「おかしい」と指摘できるわけもありませんよね。
      田淵 拝

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