【おススメ書籍】『ラストインタビュー 藤島ジュリー景子との47時間』を読んで抱いた違和感~「アーチャリー」こと松本麗華氏との共通性…著者・早見和真氏が仕掛けた〝巧妙な〟推理小説なのか……
大前提として、よくできている本だと思った。著者である小説家・早見和真氏の執拗なまでの質問に藤島ジュリー景子氏は真摯に答えている。丁寧に、そして逃げることなく向き合っている。その点は評価したい。この書籍が「タレント本」や「回顧録」であれば、それで十分に合格点だと言えるだろう。
だが、このタイミングで出されるジュリー氏の「本音」を聞き出して記したものとしては、違和感がぬぐい切れない。
それはやはり、書籍の中でも挙げられている「なぜ『今』なのか」「なぜ『本』なのか」が解消しきれてないからだ。
まず、この書籍のタイトルからして違うのではないか。これはもちろん、ジュリー氏の責任ではない。もしかしたら、著者の早見氏の本意でもないかもしれない。書籍のタイトルというのは売れ行きを左右する。そのため番組のタイトルと同様に、出版社(番組の場合には局)が差配する。しかも、ジュリー氏はインタビュイーであり、著者ではない。基本的にはタイトルに口を出す権限はない。
それは何を意味するのか。
本書に関しては、ジュリー氏には権限もない代わりに、「責任」もないということだ。もちろん、しゃべった内容には個人としては責任がある。しかし、その言葉の「選択権」や「編集権」は彼女にはない。そんな状態では「責任」を担うことはできない。まず最初にしっかりと押さえておきたい点は、そういったことであり、本書はそういった「枠組み」や約束事で成立したものであるということだ。
本書は、ジュリー氏の考えを「ある解釈に基づいて再編集した」ものであって、彼女の著による〝何のフィルターもかかっていない〟ものとは〝似て非なるもの〟ものなのである。
そのうえで、再度検証してみると、『ラストインタビュー』というタイトルからは、「もう終わり=終わった話=過去話」というニュアンスが伝わってくる。そこには「もうひと区切りにしたい」という気持ちが見え隠れする。『ラストインタビュー』というタイトル自体が、「語り尽くされた」という印象を演出し、読む側の批判的想像力を封じてしまう可能性がある。私のタイトルイメージは、むしろ『血脈』や『血筋』『血族』であった。「まだ終わっていない構造的な継承」「逃れられない血」を感じるからだ。出版社や編集者のミスジャッジだ。
ジュリー氏は「私は母と似ていない」と述べることで、「血」を断ち切りたかった。しかし、断ち切れなかった。これはそういった〝血族にまつわる〟話だ。またジュリー氏は事務所を否定することで、自分は「犠牲者」であることを強調している。それは「悪いのは事務所」と強調することでタレントを守ろうとする美談ではあるが、根本的な問題を解消することにはなっていない。この辺りの編集構成にも、〝意図的な〟何かが見え隠れする。
本書の構成は、ジュリー氏の個人的記憶・感情に軸を置いた叙述が多く、例えば「噂はあったが、詳しく知ろうとしなかった」「父母から強い立場を押し付けられた」「タレントとの絆は個人としてのものだった」などの語りは、彼女自身を「感情的被害者」として位置づける一方、事務所が制度的に加害構造を抱えていたことの掘り下げは、ほとんどされていない。
つまり、個人の悔恨や混乱を前面に出すことで、制度の再点検を語りの背後に追いやる仕掛けが透けて見えるのである。
前述した「なぜ『今』なのか」ということに関しては、ジュリー氏は「補償の枠組みが整ってきた」と述べているが、本当にそうなのか。だとすれば、なぜ「会見」という形でそれを証明しないのか。そんな疑問が生じてしまう記述になっている。
母・メリー氏のことについても「『代表権を勝手に移行している!』などと非難された」とその確執を強調しているが、「死人に口なし」とはこのことだ。「母との不仲」の理由として、自分が事務所を「普通の会社にしようとした」ということを挙げ、事務所が機能不全であったことを表面化し、すべての不祥事を事務所のせいにしているように見えてしまうのは、なぜなのか。
そんな違和感もあり、2つめの論点「なぜ『本』なのか」という点においては、「こちらの言い分を残したい」「『ここに書いてある』と言えるものがほしかった」と弁明しているジュリー氏の言葉が、「『免罪符』がほしかった」と言っているようにしか聞こえなかった。
残念だ。
なかなかよく語られている、聴き取られているインタビュー集だ。ジュリー氏もよくここまで話したと感服する。その覚悟が並々ならないものであっただろうことを理解できるだけに、「もったいない」と思った。
特にそれは、最後のくだりの部分を読んだときに感じられた。
本書のなかで、ジュリー氏は「スタートエンタテイメントには関わっていない」「個人としてタレントの相談に乗っている」と話しているが、その一方で、「嵐の最後のツアーは手伝いたい」と言い切ってしまっている。いや、「言わせてしまっている」と言った方が正しいかもしれない。「言った」のは事実だろう。ジュリー氏もそれだけの覚悟を持ってこのインタビューに臨んでいる。だが、意図的にこのコメントを最後に持ってきたのはなぜなのか。そう考えると、「そう思っているように仕向けられている」とも取れるという「真実」にたどり着くのだ。
それは、このジュリー氏の発言は、「『権力』は『経営』ではなく、『マネジメント』に宿る」との言葉通り、社会心理学の「社会的勢力感(Sense of Social Power)」を標榜した「失言」であると思われかねないからだ。そこには、倫理的な課題が露わになってくる。その課題は3つある。
1.責任の所在/経営から退いておきながらおこなう、タレントへの助言や関与が何らかの意思決定に影響を与えた場合、誰が責任を取るのか
2.影響力の非公式化/公式な肩書がないことで、逆に「透明性」が失われ、権力の所在が見えにくくなる
3.タレントの心理的依存/長年の関係性からタレントが彼女の「助言」を「指示」と受け取る可能性がある
そして、以上のような「種まき」がおこなわれた「倫理的課題」は、何を招くのか。
「旧体制の再生産」である。
彼女が最も恐れ忌み嫌っている、旧態依然とした事務所の再来だ。
だが、このことに関しては、こうも推察できる。早見氏ほどの人物が、最初と最後で取材対象者(被取材者=ジュリー氏)が言っていることの「整合性」が取れていないことや、論旨の「矛盾」、言論の「不一致」に気がつかないとは考えにくい。
だとすれば、これは早見氏の意図した「仕掛け」なのか。もしくは、「きみたちはこの矛盾に気がつくか?」的な、早見氏が仕掛けた「挑戦」なのか。だとしたら、ずいぶん〝手の込んだ〟推理小説だ。その部分は、一度、早見氏に直接聞いてみたいところだ。
再度述べるが、本書は書籍としてはとても素晴らしい。しかし、この最後の言葉によって、せっかくジュリー氏と著者の早見氏が丹念にこの書籍の中で積み上げたものが一瞬にして台無しになった。この現象は皮肉にも、ジュリー氏が本書で何度も述べているように「母は一言多い」という性格はしっかりと娘に受け継がれていることを証明してしまっている。
最後に、私がこの書籍を最初に読んだときに直感したことを話しておきたい。
「この書籍におけるジュリー氏を、最近どこかで見たり読んだりしたなぁ。何だっけ?」という感覚だ。
すぐには思い出せなかった。だが、少しして思い立った。それは、先日このブログでも「おススメ映画」として紹介した、「アーチャリー」こと松本麗華氏である。
皆さんは、そう聞いて「?」と思うだろう。以下にその理由を述べる。
両者には多くの「共通点」がある。
「親の影響」という視点において、松本氏は麻原彰晃の支配下にあったと語る。一方、ジュリー氏は「メリーはライオンで自分はシマウマ」「母は常に自分が上だと思っていた」という発言で、メリー氏やジャニー氏に翻弄された「被害者」「犠牲者」であると語る。「自己の立場」においては、松本氏は教団の象徴として責任を押し付けられたと主張し、ジュリー氏は事務所の混乱の責任を一身に背負ったと述べている。「被害性の主張」という点においても、松本氏は自分も被害者であり、加害者ではないと言い、ジュリー氏は「噂は知っていたが深く知ろうとしなかった」ことが最大の過ちと述べている。
もちろん、松本氏は、宗教団体の「象徴」として社会的に排除される構造に置かれたが、ジュリー氏は制度の中枢にいた人物である。また松本氏は「加害の継承者」として社会的に見られた一方、ジュリー氏は「加害の隠蔽者」として批判されており、責任の性質が異なる。このように違った面もあるが、多くの点で共通点が見られるのである。
その現象を、私は「スケープゴート化」と呼んでいる。
なぜ個人が「制度の失敗」の「象徴」として処理されるのか。それは、「スケープゴート」としか思えないし、周りからはそうとしか見えない。だが、重要なのはなぜそうなってしまうのかということだ。
その理由は、制度そのものの責任構造が〝曖昧である〟からだ。本書のジュリー氏の語りは、「自分も犠牲者だった」という構図を用いて、制度の責任を個人化しようとしているようにも見える。そこには、制度の構造が起因となる加害性が語られないまま、個人の感情と記憶に回収されてしまうという危険性がないと言えないだろうか。
それは、メディア人一人ひとりはもちろんのこと、私たち日本人皆が向き合う問題である。
オウム事件もジャニーズ性加害問題も、「終わった事件」としてしまってはいけないのだ。
「東洋経済オンライン」より