【今日のタブチ】女性セブンのスクープ「福山雅治『女性アナ不適切会合』フジテレビ報告書に独占告白70分」について考えるー報告書の「空白」を私たちは何によって埋めるべきなのか?

女性セブンが報じたスクープ「福山雅治『女性アナ不適切会合』フジテレビ報告書に独占告白70分」は、第三者委員会の報告書に記された「男性有力番組出演者」が福山雅治氏であることを明らかにした。報告書が発表された当初、「この人物は誰なのか」という憶測が業界を駆け巡ったが、フジテレビ関係者に私が取材したところ、「福山氏であること」は関係者の間では周知の事実だったという。
まず、何よりも評価したいのは、福山氏がこの報道に対して逃げることなく、堂々とインタビューに応じた姿勢である。報告書の内容に対して「自分の言葉でお伝えします」と語り、70分にわたって真摯に説明をしたことは、著名人としての責任を果たすだけでなく、社会的な信頼を築く行為でもある。特に、「参加された方々には楽しんでいただけた時間だったと思っておりました」「だからこそ、(この事実は)恥ずかしながらショックでした」と語ったくだりには、正直な気持ちと反省が表れている。なかなかできない勇気ある行動だ。
福山氏はラジオ番組などで下ネタトークを得意とし、それが“お家芸”とも言えるスタイルだった。しかし、今回の件では、そのスタイルが必ずしも万人に受け入れられるものではないことを思い知らされた。そこには、「自分は有名人だから嫌われるはずがない」「自分のトークは誰もが楽しむはずだ」という無意識の思い込みがあったのではないか。これは福山氏だけに限らず、有名人が陥りがちな「罠」とも言える。他の著名人たちも「他山の石」として受け止めるべきだろう。
しかし、今回の騒動で最も責められるべきは、フジテレビ側である。特に会合を主催し、福山氏を招いた大多亮元専務は、その場の構成や配慮において重大な「想像力の欠如」があった。数人だけのクローズドな場であればともかく、アナウンサーを含む大規模な会合であれば、福山氏に好意的でない人がいる可能性を想定すべきだった。そこにあったのは、「不快に思う人間などいないだろう」という傲慢であり、アナウンサーを従属的に扱う企業体質の表れでもある。
そして、ここからが本質的な問いである。第三者委員会の報告書は、本来「制度」や「企業倫理」の構造的欠陥を指摘するためのものであったはずだ。ところが、報告書が「男性有力番組出演者」として個人を匿名で記述したことで、逆に人々の関心を煽り、スクープ報道につながり、結果として福山氏が個人として説明を求められるという“予期せぬ”構図が生まれてしまった。
このパラドクスは、報告書が制度批判を装いながら、実際には個人の責任へと回収される危うさを孕んでいる。匿名性が制度の問題を覆い隠し、結果として空白を生んだ。そして、報道がその空白を埋める役割を果たすことになり、結果的に福山氏の告白がその空白を“福山氏個人の誠実さ”で埋めることになった。だが、それでは制度の欠陥は解消されない。
私たちが本当に問うべきは、「なぜそのような会合が制度的に許容されていたのか」「なぜアナウンサーの声が事前に届かなかったのか」という構造的な問題である。福山氏の告白は誠実であり、女性セブンの報道も意義深い。しかし、それだけではフジテレビの企業体質の傲慢さは変わらない。
制度の空白を、個人の誠実さで埋めてしまう社会。それは、誠実な者ほど傷つき、傲慢な制度ほど温存されるという構図である。私たちは、組織や制度の欠陥という“空白”に、どんな責任と想像力を注ぎ込むべきなのか——その答えを、今こそ問われている。

「Yahoo!ニュース」より

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