【今日のタブチ】自動運転バス事故とAI自殺事件――技術革新の「歪み」はなぜ見過ごされるのか?

ドラマを現実化したような事件が起きた。
TBS系で放送されていた『イグナイトー法の無法者ー』では、主人公の父親の運転手が引き起こしたバス事故が発端となって大きな事件に発展してゆく。その裏側には、自動運転バスの実験という事実を隠蔽する政治家と行政があった。主人公の父親は、そうとは知らず、自動運転実験の巻き添えを食ったという結末だった。
今朝の新聞には、そのドラマを彷彿とさせるような事故の記事があった。東京都八王子市で自動運転の実証実験中のバスが道路脇の街路樹に衝突し、乗客14人のうち少なくとも1人が軽傷を負った。もし、ドラマのような状況になっていたら大事故に発展していた可能性もある。そう考えると、背筋が凍る。
そして今日のニュースにはこんなものもあった。
アメリカで、ある16歳の少年がChatGPTとの対話を重ねるうちに精神的に追い詰められ、自殺に至ったという事件だ。AIにのめり込んだ人物による死亡事件が公になるのは初めてというが、実は潜在していただけで、すでにこういった事例は多発しているのではないかと私は見ている。AIは一般的に利用者に反論せず同調してしまうため、現実から背を向けさせて精神疾患などを悪化させる可能性がある。この事件でも、AIは少年の「自殺願望」に対して「私はそれから目をそらしません」と返答していたという。
以上の2つの事件は、まったく違う事件のように思えるが、そうではない。この無関係に見える事件の共通性にこそ、目を向けるべきだ
それは、秒進分歩の最先端技術に人間が依存しすぎているという事実である。
技術は人間の手を離れ、制度の隙間をすり抜けて暴走する。
自動運転は「安全性の向上」という名目で導入され、AIは「孤独の解消」という理想を掲げて普及する。だが、その裏側で、責任の所在は曖昧になり、「なぜそうなったのか」「誰が決めたのか」といった根本的な原因が追究されることなく流されていく。私たちは、いつの間にか「便利さ」と「効率性」によって、立ち止まって考えることすら忘れてしまったのではないか
事故の責任は誰にあるのか。AIの言葉は誰の倫理に基づいているのか。そして、私たちはその疑問を、誰に向けて、どの制度のどこに向けて、投げかければよいのか。
技術の進歩は止められない。だが、進歩の名のもとに、思考を止める必要はない。
「なぜそれが起きたのか」「誰がそれを許したのか」——その問いを制度の隙間に沈めてはならない。
語ることは、制度に対する抵抗であり、責任の所在を照らす行為である。
私は今日も、「語るべき違和感」を言葉にするために、筆を執る。

「日テレNEWS NNN」より

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