【今日のタブチ】大学に暴力を持ち込むな──チャーリー・カーク射殺事件から学びの場の「尊厳」を問う

共和党支持層の若き旗手であり、MAGA運動の象徴的存在でもあったチャーリー・カーク氏が、大学構内で射殺された「MAGA運動」とは、アメリカ第一主義を掲げ、移民制限や伝統的価値観の回復を訴える保守系の政治潮流であり、既存の政治エリートやリベラル支配層への反発を軸に支持を広げている。事件が起きたのは2025年9月10日、ユタ州オレムにあるユタバレー大学。保守系団体「Turning Point USA(TPUSA)」のイベント中、カーク氏は学生との討論の最中に背後から銃撃を受け、即死した。容疑者は20代の男で、大学構内から約180メートル離れた建物の屋上から発砲したとされている。FBIは政治的動機による単独犯と見て捜査を進めており、容疑者のSNSには反ファシズム的な投稿が複数確認されている。
カーク氏は18歳でTPUSAを立ち上げ、全米の高校・大学に保守的価値観を広める活動を展開してきた。ポッドキャスト「The Charlie Kirk Show」では、LGBTQ+権利、移民政策、BLM(Black Lives Matter)運動、大学のリベラル偏向などに対して強い批判を繰り返していた。たとえば「性別は2つしかない」と断言し、トランスジェンダーの権利擁護を「文化的マルクス主義」として否定。BLMについては「アメリカの分断を助長する運動」として非難し、移民政策に関しては「静かなる侵略」と表現。イスラエル支持の立場も明確で、パレスチナ側の抵抗を「テロ」と断じる発言もあった。こうした言説は、保守派の若者には支持された一方で、リベラル系の学生や市民からは強い反発を受け、TPUSAのイベントでは抗議デモが頻発していた。
それでもカーク氏は、大学という場で対話を試み続けていた。思想の違いを前提に、討論の場を設け、質問に答え、反論を受け止める姿勢を見せていた。事件当日も、移民政策や教育改革について学生約200人を前に質疑応答を行っていた最中だった。
私はカーク氏の主張には到底賛同できない。性的マイノリティへの否定、パレスチナ問題の単純化、移民への敵意──どれも受け入れがたい。しかし、それと大学という場に暴力を持ち込むことは、まったく別次元の問題だ。大学は議論の場であり、異なる思想がぶつかり合うことこそが学びの根幹だ。その場を暴力で封じることは、思想の違いを超えて、絶対に許されるべきではない。
日本でも、大学に暴力が持ち込まれた事例はある。2022年、東京都立大学の構内で、社会学者の宮台真司氏が刃物で襲撃され重傷を負った。事件は「開かれた大学づくり」を掲げるキャンパスで発生し、誰でも自由に出入りできる環境が逆に安全性の脆弱さを露呈する形となった。大学側は防犯カメラの増設や警備強化などの対策を講じたが、大学という場の「開かれたこと」と「安全」の両立は、今もなお課題として残っている。
宮台氏の事件が示したのは、大学という場が今もなお暴力の対象になり得るという現実だ。だが、こうした構造は決して新しいものではない。1968〜69年の東大紛争では、学生たちが安田講堂を占拠し、警察との激しい攻防が繰り広げられた。火炎瓶、硫酸、投石──大学構内は戦場と化した。当時の学生運動には、授業料値上げ反対や学園民主化という正当な主張があった。しかし、それが暴力という手段に傾斜したことで、社会的支持を失い、大学の自治そのものが崩壊しかけた。そして、東大紛争によって東大に入学したくてもできない学生たちは学問の機会を奪われた。大学が閉鎖され、入試が中止され、教育の継続性が断たれたことで、個々の人生に深刻な影響が及んだ。暴力は制度だけでなく、人の学びをも破壊する。
暴力は議論を終わらせ、学びの流れを断ち、大学という場そのものを壊してしまう。暴力とは、思想の違いを超えて、学びの根を断つ行為なのだ。
今回のカーク氏の事件は、思想の違いが暴力に転化した最悪の例だ。保守かリベラルかは関係ない。大学という場に暴力を持ち込むことは、何があっても許されない。思想の違いに対して、対話を諦めないこと。そして、大学という場を守ること。それは、どんな思想を持つ者であっても、議論の余地を残すということだ。
暴力がその余地を奪うなら、私たちはそれに対して、はっきりと「NO」と言わなければならない。

「Yahoo!ニュース」より

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