【今日のタブチ】40年ぶりの大学同期との夜――“不寛容な”怒声が浮かび上がらせる、こころの「すきま風」

昨晩は、大学時代のサークルの仲間と飲んだ。サークルは「十八人会」と言って、法律の勉強をするサークルだ。私は勉強せずに、もっぱらイベントや催し物担当ばかりをやっていたが(笑)。
飲み会は、最初は私を含んで3人だった。一人は藤沢豊君という同期で、会ったのは卒業以来だからほぼ40年ぶり。今回の会を企画してくれたのも藤沢君だ。ありがたいことだ。とても感謝している。そしてもう一人は、一期下の後輩で弁護士をやっている菅弘一君。申し訳ないことに私は菅君のことをほとんど覚えていないのだが、菅君の方は私がサークルの合宿のときに宴会の司会をやっていた姿などをよく記憶してくれていた。なんだか嬉しかった。
そして途中から、もう一人同期が合流した。彼は糖尿病で昨年暮れに左足の土踏まずから先を切断したため、杖を使わないと歩けない。そんな状態なのに、私たち3人が飲んでいると聞いて、わざわざ駆けつけてくれた。本人の名誉のために、名前は伏せてA君とでも呼ぼう。
40年ぶりの同期たちとの素敵な時間は瞬く間に過ぎ、帰る時間になった。そして駅前のタクシー乗り場へ。歩くのに不自由なA君を、家が近くの菅君が送ってくれるという。2組ほど待って、A君と菅君をタクシーに乗せる番がやってきた。だが、足が不自由なA君はなかなかスムーズに乗れないで、もたついてる。やっと乗り込んでA君と菅君を乗せたタクシーがロータリーを離れたとき、2組ほど後ろに並んでいた男性が「なに、もたもたやってんだよ!待ってんだから、さっさと乗れ!」と大きな声で怒鳴った。観れば、初老のダンディー風の男性だ。
「不寛容にもほどがある」と怒りが込み上げた。同時に、自分の方があとに並んでいるのに、なぜそんな主張ができるのか不思議でならなかった。
こういう「不寛容」が生み出す愚かな事件は、枚挙にいとまがない。
・電車内でベビーカーの母親に「邪魔だ」と怒鳴る高齢男性
・コンビニで外国人店員に「日本語わかんねえのか」と吐き捨てる中年客
・障害者用駐車スペースに停めた車に、事情も知らず罵声を浴びせる人たち

怒りというより、理解の欠如。想像力の欠如。いや、もはや「共感力の劣化」と言ってもいい。
科学的に言っても、「不寛容」は脳の老化と関係している。前頭前野、つまり感情の抑制を司る部分が萎縮すると、衝動的な怒りが抑えられなくなる。これはMRIでも確認されている。さらに、社会的孤立や自尊感情の低下が加わると、些細な刺激に過剰反応するようになる。きっとタクシー乗り場で怒鳴ったご老人は、見た目はダンディだが、こころのなかには孤独な「すきま風」が吹いているのだろう。
精神保健福祉士の見解では、「怒りは第二感情」であり、その背後には「不安」「孤独」「無力感」などの第一感情が潜んでいるという。つまり、怒っている人は、実は傷ついている人でもある
統計もこの状況の深刻さを裏付けている。法務省『犯罪白書』によれば、高齢者の暴行・傷害による検挙数は20年間で約20倍に増加。令和5年の高齢者検挙人員は前年比5.0%増の41,099人。検挙人員総数に占める高齢者の割合は1989年の2.1%から2019年には22.0%にまで上昇している。
私は昔、日本テレビのNNNドキュメント「高齢初犯」を取り上げたことがある。これまで平穏な生活や社会的地位を得ていた高齢者が、初めてキレて犯罪に走る。そんなケースが増えていると番組で紹介した。まさに「不寛容」が引き金になっていると。放送は2013年だから、いまからもう12年も前。すでにその時点で、高齢者を取り巻く危機的な現状を示唆していたのだ。
怒鳴ったあの男性も、もしかしたら何かを抱えていたのかもしれない。でも、だからといって、杖をついてタクシーに乗ろうとする人に怒鳴っていい理由にはならない。
不寛容は、他者への理解の欠如であると同時に、自分自身の脆弱さの表れでもある。もし、ああいった不寛容が、やがて戦争を生むのだとしたら。そう考えると、あの怒声がただの迷惑行為ではなく、社会の深部にある危機の兆候に思えてきて、空恐ろしくなった。
そんなことを、帰りの電車の車窓を見ながらぼんやりと考えていた。

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