【今日のタブチ】《ガラスの天井》を破った高市早苗氏が企む、“見えない”壁――民主主義の根底を覆す「メディア・コントロール」の危うさ

今朝はこの話題で新聞各紙の一面が持ちきりだ。
高市早苗氏が自民党総裁に就任し、史上初の女性首相が誕生した。今回の総裁選は、派閥の思惑が交錯する中での混戦だったが、結果として高市氏が地道な支持を積み重ね、勝利を収めた。注目すべきは、「地盤・鞄・看板」のうち、世襲制議員としての「地盤」を持たない点だ。これは日本政治における新しい風であり、私はその挑戦と突破力を率直に評価し、歓迎したい。女性が長らく直面してきた《ガラスの天井》を破ったその姿は、多くの人々に希望を与えたはずだ。

しかし、同時に私は一つの懸念を抱いている。
それは「メディアへの規制」、特にテレビ報道への圧力である。
高市氏が総務大臣として在任していた2016年、報道の自由を揺るがす発言が国会で飛び出した。衆議院予算委員会で、野党議員から「政権に批判的な番組を流しただけで業務停止が起こり得るのか」と問われた高市氏は、こう答弁した。
「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返し、行政指導しても全く改善されない場合、公共の電波を使って繰り返されることに対して何の対応もしないとは申し上げられない」
この発言は、放送法第4条に定められた「政治的公平」「報道の自立性」違反を理由に、電波法76条に基づく「電波停止命令」の可能性を示唆したものだ。つまり、政府が「公平性に欠ける」と判断すれば、放送局の電波を止めることもあり得るという立場を明言したのである。
さらに高市氏は、「一つの番組だけでも政治的公平性を欠くと判断される可能性がある」と述べ、従来「倫理規範」とされてきた放送法第4条に法的拘束力があるとの見解を示した。これは、報道機関の編集権や番組構成に対する政府の介入を正当化するものであり、メディア関係者や法学者から強い批判を浴びた。
この問題は、2023年にも再燃する。立憲民主党の小西洋之議員が、2014〜15年にかけての首相官邸と総務省のやり取りを記録した「内部文書」を公開したのだ。文書には、特定の報道番組に対する不満と、放送法の解釈変更を進める意図が記されていた。高市氏はこれを「捏造」と断言し、「捏造でなければ議員辞職する」とまで発言したが、総務省は一部文書を「行政文書」と認定し、事実上その存在を認めた。
こうした一連の動きは、報道の自由に対する重大な脅威である。政府が「公平性」の名のもとに報道内容を監視・介入し、免許制度を盾に圧力をかける構造は、ノーム・チョムスキーが批判した「メディア・コントロール」の典型例だ。報道機関が権力の監視役として機能するためには、政治からの独立が不可欠であり、それを揺るがす言動は、民主主義の根幹を損なう。
日本では、放送免許を総務省が管轄しており、制度的に政府とメディアの距離が近い。これは、米国や欧州のように独立機関が免許を管理する国々とは大きく異なる。たとえばハンガリーでは、オルバン政権下でメディア統制が進み、政府批判を続けていたラジオ局クラブラジオが放送免許を更新されず閉局に追い込まれた。さらに、独立系ニュースサイトIndex.huでは編集長が解任され、編集部の大半が辞職する事態も起きた。こうした動きにより、報道の自由度ランキングは急落し、EUや国際機関から懸念の声が上がっている。
こうした例からも明らかなように、政府によるメディア統制は決して遠い国の話ではない。日本においても、放送免許を政府が握っている以上、政権の介入によってテレビ局が免許を剥奪されるという事態は、もはや絵空事ではない。報道の自由は、制度の隙間から静かに損なわれていく。だからこそ、今こそ目を凝らす必要があるのだ。
もし高市氏が、かつてのようにメディアへの介入を続けるならば、それは《ガラスの天井》を破った首相として、極めて残念な行動だ。
自らが苦しんできた「見えない壁」を、今度は自らの手で創り出そうとしていることに他ならない。
首相としての責任は、報道の自由を守ることにこそある。
それが、真に「天井を破った」リーダーの姿ではないだろうか。

「BBC NEWS JAPAN」より

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