【今日のタブチ】《二律相反》と《しなやかな生命》――ノーベル賞・坂口氏が貫いた信念は、「社会」を治す偉大なる発明

2025年のノーベル生理学・医学賞が大阪大学の坂口志文氏らに授与されることが発表された。受賞理由は、免疫の暴走を防ぐ「制御性T細胞(Treg)」の発見。これは、自己免疫疾患やがん治療に革新をもたらす画期的な成果である。
坂口氏のノーベル賞受賞は、医学の枠を超えた「社会を治す発明」だ。免疫のブレーキという発見は、現代社会の思考にも応用できる。そんな視点で、今日のブログを綴ってみたい。

坂口氏は、現場主義を貫きながらも、理論に妥協せず、長年にわたり「生命の本質とは何か」を問い続けてきた研究者だ。周囲の懐疑や時代の常識に流されず、確信をもって研究を積み重ねてきた姿勢には、深い敬意を抱かざるを得ない。坂口氏の功績はもちろん、素晴らしいが、私が特に注目したのは以下の2点である。
ひとつめは、免疫の「二律相反」という考え方。免疫は外敵を排除する「攻撃」の力を持つが、過剰に働けば自己を傷つける。坂口氏が発見した制御性T細胞は、免疫に「ブレーキ」をもたらした。つまり、私たちの身体には、アクセルとブレーキの両方が備わっている。この柔軟な仕組みは、医学的な意味を超えて、現代社会の構造にも通じる。
たとえば、外交においては「対話」と「抑止」が両立してこそ安定が保たれる。冷戦期の米ソ関係では、核抑止力とホットラインによる対話が同時に機能していた。しかし、これが今は崩れつつある。核保有国間の信頼は揺らぎ、対話のチャンネルは細り、抑止だけが先行する不安定な構図が広がっている。ウクライナ侵攻後の米露関係や、台湾海峡をめぐる米中の緊張など、軍事的抑止が強化される一方で、対話の場は縮小している。まさに「ブレーキなきアクセル」が暴走しかねない状況だ。
経済においても、「自由競争」と「規制」のバランスがなければ、格差や暴走が生まれる。2008年のリーマンショックは、金融の自由化が行き過ぎた結果とも言えるが、その後のバーゼル規制強化が市場の安定に寄与した。しかし、今また金融のアクセルが強まりつつある。フィンテックや暗号資産の急成長、AIによる高速取引の拡大など、規制が追いつかない領域が広がっている。日本や米国、インドネシアなどの一部の国では、金融緩和政策が資産バブルを生み、格差をさらに拡大させている。ブレーキの設計が不十分なまま、技術と資本が加速する現状は、再び「暴走」の兆しを孕んでいる。
環境政策では、「開発」と「保護」の両立が求められる。たとえば、北海道の知床では観光開発とヒグマ保護が共存するよう、地域住民と行政が協働してゾーニングを行っている。その一方で、バランスがうまくいっていない例もある。沖縄・辺野古では、基地建設という「開発」が進む中で、ジュゴンの生息環境という「保護」が脅かされている。環境影響評価は実施されているものの、住民の声や生態系の長期的視点が十分に反映されているとは言い難い。また、インドネシアのカリマンタン島では、パーム油プランテーションの拡大により熱帯雨林が急速に失われ、オランウータンの生息地が危機に瀕している。いずれも、開発が保護を押しのける構図であり、持続可能性の視点が欠けている
どれも一方だけでは機能しない。むしろ、矛盾するように見える二つの力が共存することで、持続可能な仕組みが生まれる。坂口氏の発見は、こうした「二律相反」の思考を、生命のレベルで証明したものだ。
二つ目は、「しなやかな生命」への信念。免疫細胞といえば、かつては「敵を攻撃する武器」として語られてきた。しかし坂口氏は、「生命とはもっとしなやかな存在であるはずだ」という信念を曲げず、制御性T細胞の存在を証明した。これは、既存の常識を疑い、学び直す(アンラーン)勇気の象徴でもある。
この「アンラーン」は、現代社会にも強く求められている。たとえば、AIが教育や労働のあり方を根本から変えつつある今、私たちは「知識とは何か」「学ぶとはどういうことか」というテーマに関する先入観や固定観念を問い直す必要がある。あるいは、ジェンダーや家族観といった社会規範も、過去の常識に縛られず、柔軟に見直すことが求められている。坂口氏の研究は、こうした「問い直し」の姿勢を、生命の仕組みそのものから示してくれたとも言える。
この考え方も、社会に通じる。たとえば、学校で「問題児」とされた子どもが、実は創造性や共感力に優れていたという例がある。米国の教育者リタ・ピアソンは、学習障害とされた子どもたちが、適切な関わりと環境によって驚くほどの表現力を発揮することを示した。地域の「非効率」とされた慣習が、実は持続可能性の鍵だったという発見もある。岩手県遠野市では、昔ながらの「結(ゆい)」の仕組みが、災害時の助け合いや高齢者支援に活かされている。企業活動において「ノイズ」とされていた少数意見が、のちにイノベーションの種となった実例もある。オランダの心理学者アレクサンダー・デ・ドルーとイギリスのマイケル・ウェストの研究では、少数派の異論がチームの創造性を高めることが示されており、実際に郵便業務やマネジメントチームでの意思決定に革新をもたらした。一見「悪者」に見えるものの中に、価値を見出す視点。それは、社会をしなやかに保つための大切な力だ
坂口氏の功績は、医学の枠を超えて、現代社会の思考に新たな視座をもたらす。対立する力の共存と、弱さに価値を見出す発想は、制度や言説の硬直をほどくヒントになる。
これは、単なる生理学的発見ではない。「ヒト」を治すだけでなく、「社会」を治す偉大なる発明なのだ

「読売新聞オンライン」より

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