【今日のタブチ】小中学校を防災カメラで“見張る”ということ――「監視」と「教育」、その境界を問う

愛知県みよし市が、小中学校すべてに防犯カメラを設置する方針を打ち出した。
発端は、2025年夏に市内中学校で教員による盗撮未遂が相次いで発覚したことだ。市はこの事態を重く見て、9月議会に約5772万円の補正予算案を提出。10月に可決され、計194台のカメラが設置されることになった。トイレや更衣室の出入口など、人の出入りが確認できる場所に設置され、映像は原則1週間で消去。問題が起きた場合のみ確認されるという運用が予定されている。

こうした動きは、教育現場の安全確保を目的としている。
ただ、その裏には「監視」という言葉が持つ重さがある。東京都や横浜市でも、教員による盗撮事件が発覚。SNSで画像が共有されるなど、深刻な事態が続いている。名古屋市教育委員会も一時は教室内への防犯カメラ設置を検討したが、児童生徒のプライバシーや教育環境への影響を懸念し、断念した。

子ども家庭庁は、子どもの権利擁護の観点から、こうした監視機器の導入には慎重な姿勢を示している。
阿部俊子文部科学大臣も、教室内への設置について「子どもたちの日常活動がすべて録画されることの是非を踏まえると、広く推奨するには議論が必要」と述べ、限定的な場面での活用にとどめるべきとの見解を示した。

「危ないから見張る」という発想は、即効性があるように見える。でも、その前にできることがあるはずだ。教員の採用や研修制度の見直し、児童との信頼関係の構築、通報体制の整備など、監視に頼る前に取り組むべき課題は多い

私がこの件について特に強く指摘したいのは、監視される経験が将来的に「監視する側」への同化を促すという“世代間連鎖”についての懸念だ。これは、心理学的にも社会学的にも根拠がある。
米国の研究では、学校や家庭で常時監視されて育った子どもが、成人後に監視技術の導入や管理的な制度に対して抵抗感を持たず、むしろ積極的に支持する傾向があるとされている。これは、監視が「当たり前」の環境で育つことによって、自由やプライバシーよりも秩序や安全を優先する価値観が内面化されるためだ。
こうした傾向に対抗する動きとして、米国では「Atlas of Surveillance」という市民主導のプロジェクトが立ち上げられている。これは、全米の警察機関が導入している監視技術(顔認証、ドローン、ライセンスプレート読取装置など)を地図上に可視化し、誰がどこで何を監視しているのかを市民が把握できるようにする試み。監視される側が監視する側を見張るという構造を逆転させることで、透明性と説明責任を求める動きが広がっている。
英国では、CCTVの普及によって一部地域で犯罪率が減少したという報告がある一方で、犯罪が監視の手薄な地域へと移動する「風船効果(displacement effect)」も確認されている。たとえばロンドン中心部での監視強化により、犯罪が郊外へと流れる傾向が見られた。これは、監視が犯罪の「場所」を変えるだけで、根本的な動機や構造には影響を与えないことを示している。
中国の「社会信用システム」では、個人の行動がスコア化され、統制の手段として機能しているが、自由と人権の観点からは強い批判もある。こうした例は、技術の進化がもたらす利便性と引き換えに、私たちの自由や尊厳が脅かされる可能性を示している。

教育現場においても、監視を手段とする前に、子どもたちの声を聞き、信頼と対話を基盤とした安全確保の方法を模索するべきだ
監視は「管理」と「配慮」の両方の側面を持つ。だが、現代社会においては、「管理」が肥大化し「配慮」が周縁化されているように私には思える。
そのバランスを保つことが、教育の本質を守る道ではないか。私たちは「誰のための教育か」という問いに、もう一度立ち返る必要がある

「FNNプライムオンライン」より

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