【今日のタブチ】特撮ヒーロー番組「スーパー戦隊シリーズ」半世紀の歴史に幕が下りる――衰退した、テレビというメディアの《育てる力》
テレビ朝日系で放送されている、特撮ヒーロー番組「スーパー戦隊シリーズ」が、現在の『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』を最後に終了することがわかった。
1975年開始の第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』から世代を超えて愛されてきた人気シリーズが、半世紀の歴史に幕を下ろす。
1975年と言えば、ちょうど私は小学生。当時は配信はなく、テレビが一番身近な娯楽であった。子ども心に、強烈な印象を受けた記憶がある。5人の男女がチームを組み、色分けされたマスクとスーツで武装して怪人と戦うストーリーは斬新だった。
その後、49作に至るなかには、「アバレンジャー」や「デカレンジャー」「マジレンジャー」「ボウケンジャー」「シンケンジャー」「ルパンレンジャー」など、ふざけているのかと思うようなネーミングもあったが、そういう点も含めて愛されてきた秘訣だろうと思う。
このシリーズが生まれた背景には、当時のテレビ界が抱えていた「単独ヒーローもの」の限界があった。複数のヒーローが協力して戦うという構造は、子どもたちに「仲間と力を合わせる」ことの大切さを伝える教育的な意図も含まれていたと私は分析している。
また、色分けされたキャラクターは、視覚的にもわかりやすく、個性を際立たせる工夫でもあった。戦隊というフォーマットは、単なる娯楽ではなく、子どもたちの社会性や感情の発達にも影響を与えていたのではないかと思う。
そして何より、この枠は若手俳優の登竜門として機能してきた。松坂桃李、山田裕貴、志尊淳、横浜流星など、今や映画やドラマで主役を張る俳優たちが、かつてこの枠で汗を流していた。
日曜朝の放送を見ていたヤンママたちが、いち早くその魅力に気づき、SNSや雑誌で話題にすることで、俳優たちは一気に注目を浴びる。戦隊出演は、単なる「子ども向け番組」ではなく、芸能界のスタートラインとしての意味を持っていた。
若手俳優にとって、ここでの経験は演技力だけでなく、体力、礼儀、現場対応力など、総合的な人間力を鍛える場でもあった。そうした「育成の場」がテレビの中に存在していたことは、今振り返ると非常に貴重だったと思う。こうした現場が失われることは、俳優にとっても大きな喪失だ。単に「出演機会が減る」という話ではなく、現場で鍛えられ、視聴者との距離を縮めながら成長していくプロセスそのものが失われる。
そしてそれは、テレビというメディアが持っていた「育てる力」の衰退とも重なる。
かつてはテレビが人材を発掘し、育て、送り出す装置として機能していたが、今やその役割はSNSや配信に分散し、かつてのような一貫した育成の場は希薄になりつつある。
スーパー戦隊の終了は、そうした構造的な変化の象徴でもある。
では、なぜこのシリーズが終わるのか。
背景には、テレビ視聴習慣の変化、制作費の高騰、玩具市場の縮小、そして何より「子ども向け番組」という枠そのものへの需要が減ったことが挙げられる。
スマホやYouTubeが当たり前になった今、日曜朝にテレビの前に座るという習慣は、もはや過去のものになりつつある。また、番組の人気が俳優個人に集中する傾向が強まり、作品そのものの魅力が相対的に薄れてしまったことも、シリーズの終焉に影響しているのではないだろうか。
半世紀にわたって続いた「スーパー戦隊」という枠が消えることは、単なる番組終了ではない。それは、テレビというメディアが持っていた「育てる力」「つなぐ力」「記憶を共有する力」が、静かにその役割を終えようとしていることの象徴でもある。
私たちは、あの色とりどりのスーツに身を包んだヒーローたちを通して、友情や勇気、そして時には別れを学んできた。その記憶は、画面の中だけでなく、私たちの心の中に、確かに残っている。こうした「枠」の消失は、単なる番組の終焉ではなく、メディア文化の構造的な変化を示している。
かつてテレビは、視聴者の生活リズムを形成し、世代を超えた共通体験を生み出す「時間の器」として機能していた。スーパー戦隊はその典型であり、毎週決まった時間に放送されることで、親子の会話や学校での話題、玩具の購買行動までを連動させていた。
しかし、オンデマンド視聴が主流となった今、メディアは「時間」ではなく「個人の選択」によって消費されるものへと変容している。その結果、かつてのような「育てる」「つなぐ」「共有する」力は希薄になり、メディアはより断片的で流動的なものとなった。
スーパー戦隊の終了は、そうした時代の転換点を告げているのかもしれない。
「中日新聞デジタル」より 


