【今日のタブチ】自治体の「〇〇推し課」「発想クルリン課」はなぜ長続きしないのか──桜美林大学で私が学生に伝える「Try & Error」の真髄

最近、「〇〇推し課」だとか「発想クルリン課」だとか、自治体の部署名を見ていると、正直「エイプリルフールか?」と思ってしまうことがある。年を取ったせいか、こういう言葉にまず身構えてしまう。
もちろん、狙ってやっているのだろう。インパクトがあるし、話題にもなる。新聞にもネットにも取り上げられる。

ただ、私の中では、少し引っかかる。

こういう部署は、本当に中身が伴うのだろうか
あるいは、そのうち飽きられて、何事もなかったように消えていくのではないか。

実は、過去にも似た例はあった。
佐賀県武雄市「いのしし課」「レモングラス課」。当時はかなり話題になったが、今それを覚えている人はどれほどいるだろうか。

なぜ、こうした“変わった名前の課”が生まれるのか。
理由はそんなに難しくないと思っている。

自治体は、どうしても「見えない」。
何をやっているのか分かりにくいし、普通にやっていても誰も注目しない。だからまず「気づいてもらう」必要がある。名前を派手にして、看板を広告にする。これは広報としては、かなり合理的だ。

もう一つは、内部向けのメッセージだろう。
「これまで通りではダメだぞ」「発想を変えろ」という、職員へのショック療法のようなもの。「発想クルリン課」なんて、言葉そのままだ。

ここまでは分かる。
私も、発想としては否定しないし、悪いことではない。
ただ、私が気になるのは、名前の奇抜さそのものではなく、時間との相性だ。

行政というのは、本来、時間がかかるものだ。制度はすぐに成果が出ないし、評価されるまでに何年もかかる。
ところが、奇抜な名前は、鮮度が命だ。
初年度は話題になる。二年目、三年目になると「まだそれやってるの?」になる。

このギャップが、危うい。

最初は注目されても、やがて「中身は何だったのか」が問われる。そのとき、従来の観光課や広報課と何が違うのかを説明できなければ、「名前だけだった」と言われて終わる。
武雄市の例は示唆的だ。
あれは単なる思いつきではなく、市長の強い思想と物語があった。逆に言えば、その思想を共有する設計がなければ、制度としては脆いということでもある。“物語”を共有できる人がいなくなれば、課の名前は途端に色あせる。
もちろん、こうしたネーミングの部署は「失敗しても傷が浅い」ので、まずは「やってみることが大事なのではないか」という考え方もあるだろう。「あれは実験だった」「挑戦だった」で失敗が許容され、その失敗すらも忘れ去られてゆく。
だが、本当にそれでいいのだろうか?

私は常々、大学で学生たちに言っている。
「失敗はどんどんしたほうがいい」「Try&Errorの精神だ」と。
ただし、その失敗がなぜ起きたのか、何を学んだのかを言葉にできなければ、失敗は単なる出来事で終わる。
自治体のネーミング問題も、どこか似た空気を感じている。

行政は、本来、失敗に対して厳しく検証されなければならない。ところが、名前が軽いと、検証も軽くなる。これが常態化すると、「派手にやった者勝ち」になる。

だから、大切なのは、「その課が、5年後も10年後も説明できる存在であるかどうか」だ。
奇抜な名前でもいい。だが、それは“最初の扉”にすぎない。
本当に問われるのは、そのあとの「地味で退屈な時間」を耐えられるかどうかだ。
行政にとっていちばん難しいのは、派手な一歩を踏み出すことではない。何も話題にならなくなったあとも、淡々と続けることではないか。

注目されなくなったからやめる、目新しさが失われたから名前を変える。そんなことを繰り返しているだけでは、市民のこころはついてこない。

「神奈川新聞カナロコ」より

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