【今日のタブチ】「政治」と「メディア」の“見逃せない”関係性――高官の暴走&埼玉チャリティ歌謡祭に見る、政治の伝え方
高市政権の安全保障政策を担当する官邸高官が、非公式の場で「日本は核兵器を持つべきだ」と述べたという報を読んだ。本人は「個人的見解」と断りつつ、日本の核保有の必要性に言及したとされる。言語道断、情報の扱い方やその効果をまったく理解していないかのような行いだ。情報は英語で“intelligence”だが、インテリとは程遠い呆れた振る舞いだ。
官房長官は翌日の会見で「非核三原則を堅持」と明言したが、発言はすでに国内外で波紋を広げている。アメリカ国務省はコメントに踏み込まず、日本政府による「非核三原則」と同盟関係の再確認を重視する姿勢を示した。米政府高官は「日本に対する核の傘はこれまで通り揺るがない」と表明し、拡大抑止体制の堅固さを繰り返した。
ここで強調したいのは、政治の中身よりも「情報の性質」だ。私が、テレビや報道の世界で長年見てきた現象がある。一度発信された言葉は、取り返しが効かない。ニュースは即時性と増幅性を持ち、オフレコの一言が見出しになり、SNSで拡散され、国際社会で独り歩きする。発言者の意図や文脈は切り取られ、残るのは強い言葉だけ――今回の件は、その典型だ。
そもそも、高市首相自身が台湾有事に言及した軽率な発言で国際的な波紋を呼んだばかりだ。その悪い前例を見ていないのか。危機管理の教訓を踏まえず、さらに過激な言葉を投げるのは、外交感覚の欠如を示すものだ。こんな人物に安全保障を任せられないと思ってしまうのは、私だけではないだろう。一刻も早く自ら辞任するか、解任するべきだ。
だからこそ私は、政治を司る者の「見え方」や「伝え方」を、テレビというメディアの現場から考え直したい。ここで埼玉県の事例を紹介する。
埼玉では毎年、県知事や市長、企業経営者らがステージで歌声を披露し、地域の文化振興を支援する「埼玉政財界人チャリティ歌謡祭」が開かれている。来年元日(2026年1月1日)には、テレビ埼玉で「第34回」が午後7時から放送され、再放送は1月11日夜にも予定されている。
収録は11月29日、大宮ソニックシティ大ホールで実施された。県知事の大野元裕氏やさいたま市長の清水勇人氏、桶川市長の小野克典氏ら16名が登壇し、ビッグバンドの生演奏に合わせて「夢を歌」「Let It Go」「アンパンマンのマーチ」「何度でも」など多彩なセットリストを披露した。仮装や女装をしてステージに立つ場面もあり、普段の公務では見られないユーモアと親しみやすさが会場を沸かせた。番組では、来場者や出演者の寄付金を「埼玉県文化振興基金」に寄せ、今回の放送を通じて100万円の寄付が行われた。シリーズ全体の寄付総額は約3,500万円に達している。
これは、単なる自己宣伝のための歌番組ではない。市井の人々に政治と社会への関心を自然と向けさせ、「あのリーダー、こんな一面もあるんだ」と思わせる装置だ。歌って寄付し、テレビで笑顔を共有する――政策の条文では伝わらない「人となり」や「価値観」が、視聴者に届く。
対照的に、官邸高官の核保有発言はその真逆だ。情報は増幅装置にかかった瞬間、個人の見解でも組織の信号に変わる。とりわけ安全保障のようなセンシティブなテーマで、オフレコの言葉を軽く投げれば、国内世論は不安定化し、隣国関係は硬化し、同盟には余計な政治コストが積み上がる。米側が静かに“非核三原則の確認”へ話を戻したのは、これ以上の炎上を避け、現実の実務の枠に収めるためだった。
私の結論。政治はメディアを通して存在する。言葉は政策を先取りし、テレビ報道の世界では「一度流れた情報は回収できない」という鉄則が支配する。だからこそ、権力の中枢にいる人間は、発信の不可逆性を理解し、「見せ方・届け方」を練り込まなければならない。チャリティ歌謡祭のように、市民の目線に届く工夫を重ねること――それが遠回りのようでいて、政治そのものの説得力を高める最短距離だ。一方で、今回の高官はその重みを理解していない。職を辞してから個人的見解を語ればいい。
「テレ玉」公式HPより


