【今日のタブチ】「10代のカリスマ」尾崎豊氏が〝本当に〟伝えたかったこと~核兵器禁止条約会議に不参加の日本政府に「アトミック・カフェ」での尾崎氏の覚悟を思う

3日からニューヨークの国連本部で核兵器禁止条約の締結国会議が開かれた。会議自体は「核なき世界」への決意を新たにする政治宣言を採決して閉幕したが、核の抑止力に対する依存を強める国々は不参加だった。日本も「不安定化する世界情勢下」を理由に参加を見送った。
世界で唯一の被爆国である日本が何たることかと情けなくなる。被爆者や被爆地の悲惨な状況を知っていて、もしかしたらいまもまさに被爆の影響が私たち日本人のDNAのなかに刻まれ続けているかもしれないのに……よくもそんなことができるものだと、国家というレベルの前にひとりの「人」として疑う。
そしてその1面の記事をひっくり返すと、22面には尾崎豊氏の記事があった。私のように連想する読者を想定したレイアウトだとしたら、なんと〝粋な〟ことか
尾崎氏といえば、「10代のカリスマ」とか「青春の代弁者」「反逆の詩人」「日本のボブ・ディラン」と言われた。歌詞や数々のエピソードも相まって、「反逆者」のイメージが強い
私は、2011年3月に「尾崎豊20th メモリアル イヤーズ 特別企画」と銘打ち、当時まだBSジャパンだった現・BSテレ東の開局10周年記念番組としてドラマ「風の少年~尾崎豊 永遠の伝説~」とドキュメンタリー「放熱の彼方〜尾崎豊 知られざる伝説」を2夜連続で放送した。その際に関係者へのインタビューや取材を経て、尾崎氏の実像に迫ろうとした。そんな私の結論は、「決して尾崎氏は『反逆者』ではない」というものだった。彼は時代や社会、国家に対しての疑問を持ち続けた。自分の考えをしっかり持って、それが「本当に正しいか」を突き詰めることを厭わなかった。そんな事実を物語るエピソードを、今日の記事で妻の繁美氏が明かしていた。
高校時代の「反省日記」には、自分の行動の動機や学校への疑問もあるが、それに真摯に答える教師の書き込みもあり、それに対して彼が思いを吐き出すようなくだりもあるという。反抗だけにとどまらない、矛盾に満ちた現実に向き合う内面の苦悩や自分への問いかけが記されていたのだ。
そんな尾崎氏は、1984年8月4日に日比谷野外音楽堂(野音)で開かれたイベント「アトミック・カフェ」のステージで、1曲目に歌った「核(CORE)」を歌い終えた2曲目の間奏中に7メートルもの照明のイントレに登り、その上から飛び降りた。しかし、そのあとも足を引きずりながら、予定されていた全4曲を歌い切った。このイベントは、核廃絶を訴える音楽フェスティバルで、「アトミック・カフェ」とは、核兵器の恐怖を記録した同名の米映画から取っている。
この飛び降りを「奇行」ととらえられ、この出来事のあと、「もう尾崎は終わりだ」などと揶揄された。それほどまでに、尾崎氏にとっては覚悟の行動だったのだ。「核(CORE)」はこのイベントに参加するために制作された楽曲「反核」が原型となっていて、歌詞には「俺がこんな平和の中で 怯えているけれど 反戦 反核 いったい何が出来るというの 小さな叫びが 聞こえないこの街で」という部分も見える。
日本政府と尾崎豊氏の覚悟、そんなものは比較にならないという人もいるだろう。しかし、どっちが大義でどっちがレベルが大きい、そんなことは誰が決めるのだろうか。

飛び降りた後もステージで歌い続ける尾崎豊氏=アトミック・カフェ事務局提供
「東京新聞TOKYO Web」2023年9月10日版記事より


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