【今日のタブチ】『オールドメディアのラスボス NHK解体新書』に潜む“事実と主観のねじれ”――ダッチアングル騒動と「チャイナ」表記の危うさ
西村幸祐氏の『オールドメディアのラスボス NHK解体新書』を読んだ。
正直、私はこの書籍に対して強い危惧を抱いた。
本屋で目にして、気になって購入した。帯には「『ニュース7』のダッチ・アングルは破れかぶれの洗脳だった。」「『ニュース7』のダッチ・アングルを見破った批評家が広く深く抉る!」(原文のまま抜粋)という文字が躍る。NHKをタイトルで「オールドメディアのラスボス」と決めつけている時点で「?」と思ったが、しっかりと読んでみることにした。
“ダッチ・アングル”に関しては、私は2025年11月12日掲載の東京新聞「こちら特報部」の取材を受けて、詳細にコメントしている。
視聴者の「映像リテラシー」に対するNHK側を指摘しつつも、ダッチアングルは映画やドラマで不安感を演出する際に使われる手法であるが、今回のNHKニュース映像を全体で見る限り、悪意ある印象操作とは言えないと述べた。「発足したばかりの政権が前途多難である」というニュアンスを示唆する程度のことで、首相の人格や政権を貶める意図は感じられなかったからだ。むしろ、映像の一部を切り取り、あたかも全編が「斜め映像」で構成されているかのように拡散する行為こそ、印象操作ではないかと感じた。
西村氏は、自身がこのダッチ・アングルに最初に気づき、NHKの報道の歪曲性を指摘したと主張している。そんなことをするNHKはけしからん、解体すべきだというのだ。だが、もしそんな意図が番組側にあったとしても、たかが一番組だけを取り上げて、“NHK全体の体質”とし、「NHKが変なことをやっている」と決めつけるのはあまりにも乱暴ではないか。あれだけの大きな組織になると、いろいろな考え方や思想を持った人がいて然るべきだし、そんな多様性のある人たちを、みな同じような主義主張で統一することなどできるはずもない。
そう思いながら読み進めていて、ある表現に驚いた。
西村氏は、NHKの約1万人の正規雇用の職員の内訳について触れ、「外国籍37人の職員のうち、チャイナ人が何人いるかはわからない。」(原文のまま抜粋)と記していたのだった。
中国を「チャイナ(China)」と呼ぶこと自体は、英語や多くの言語で「中国」を指す一般的な名称であり、国際的に中立な呼称だ。だが、日本語のカタカナ表記「チャイナ」は、歴史的な背景や日中関係の文脈から、相手を侮蔑する意味合いを含んで使われる場合があり、文脈によっては差別的・不適切と受け止められることもある。日本国内においても、特に中国を嫌う文脈や、意図的に侮辱する目的で「チャイナ」「シナ」「支那」といった言葉が使われる場合は、“ヘイトスピーチ”と認定される可能性が高い。
“ジャーナリスト”を名乗り、出版業界に長年携わってきた著者がそんな事実を知らないわけがない。にもかかわらず、なぜあえて“チャイナ”を使うのか。
これについては、本書の最後の方になってやっと、「私が決して「中国」という言葉を使わない理由もここにある。実際、チベット、ウイグル(東トルキスタン)、南モンゴルを侵略し各民族を弾圧している根拠が、この周辺民族を野蛮と看做す中華思想、あるいは華夷秩序なのである。」(原文のまま抜粋)と説明されている。
しかし、中国が周辺諸国を侵略しているかどうかという事実認定と、“だから”中国は野蛮で“チャイナ”と呼ぶにふさわしいとする理屈は、本来まったく別の問題である。その2つを同じ文脈の中で語ることは危険であるし、公平・公正なジャーナリズム精神に照らして考えると、こうした混同は適切とは言い難い。ましてや、もしその“チャイナ人”がNHKでスパイ活動をおこなっているなど本気で考えているとするならば、荒唐無稽な陰謀論と受け取られても仕方ない。
西村氏の論調は、「NHKに限ったことではないが、なぜ日本のテレビや新聞、いわゆるオールドメディアがとくにチャイナに対して緩い、あるいは甘いのだろうか。」(原文のまま抜粋)と続く。メディアを十把一絡げに“オールドメディア”と呼んでいること自体に、いかに偏った見方をしているかということが伺える。個別の現象を一般論にすり替える悪質な「論理のすり替え」ではないか。
さらに、西村氏の指摘には、検証可能な事実と主観的評価が混ざり、論点が適切に整理されていないように見える部分がある。
「NHKには、中国共産党の広報前線であるCCTVの東京支局があり、韓国KBSの東京オフィスもそこにあり、ゆえに、と言うべきかもしれないが、特定秘密保護法にも集団的自衛権の行使容認にもほぼ感情的な反対の表情を見せるだけで何の建設的な批判または賛同の議論を国民に提供しない。」(原文のまま抜粋)
論理の前提と結論の結びつきが弱く、議論として成立していない部分がある。
CCTVやKBSの東京支社がNHKのなかにあるのは、メディア人ならだれでも知っていることだし、その理由は、歴史的経緯を見れば明らかだ。NHKはCCTVやKBSのみならず、ABC、オーストラリア放送協会など複数の海外放送局と正式に協力協定を結んでおり、協定に基づいて放送センター内にスペースを貸しているに過ぎない。
また、日本の主要メディアの多くが海外メディアを自社ビルに受け入れ、逆に海外メディアの建物に日本メディアが入る“相互間借り”は国際的な慣行である。事実、NHKのソウル支局はKBSの建物内に入っているし、KBS自体も戦前からNHKと技術・放送面の深い歴史的つながりを持ってきた。
従って、これらの歴史的経緯や国際的な慣行を踏まえても、「NHKは韓国や中国とべったり」という証明にはならない。
NHKという団体を偏見で決めつけている点にも、看過しがたい問題がある。
「今までNHKの職員には反日左翼がかなりいる、ということは噂にも上り、また、関係者の実感としても語られ、また、放送される番組を観ても明らかに推察されることだった。」(原文のまま抜粋)「噂」とはどんなものなのか。「関係者」とは誰なのか。本書では、まったく明らかにされていない。
私が最も問題だと感じたのは、番組制作者へのいわれのない誹謗中傷がされていたことだ。終章「「朝ドラ」プロパガンダなど、尽きない偏向」で、紙幅を割いて「1970~1980年代の作品は強い“反戦傾向”を示す」と決めつけている。これは、クリエイターなどの制作陣への冒涜になりかねない。
私は、NHKのすべてを“是”とはしていない。もちろん、それはNHKに限らず、すべてのメディアに対してである。メディアは人間が創り出すものであり、そこにはさまざまな考え方や多種多様な思考がある。時には“間違い”も犯すし、“失敗”もする。そういった“人間らしさ”がメディアたるものなのだ。だから、そんな“間違い”や“失敗”に気がついたら指摘もするし、批判もする。メディアには社会を監視する役目があるが、私たち国民もメディアを監視する役目がある。
NHKの番組の批評もするし、「おかしいな」と思ったら批判もする。そういう意味では“フラット”でNHKの味方ではない。だが、『オールドメディアのラスボス NHK解体新書』は、検証可能な事実と著者の主観的評価が混同されており、読み手が事実と意見を区別できない構造になっている。その意味で、読み手によっては“悪意”や“偏見”と映る表現が散見されるのは否めない。扱っている資料や引用は多いものの、それらを結論につなげる論証のプロセスが十分に積み上がっていないため、結論が過度に極端化されてしまっている点が残念だ。
皆さんもぜひ、読んでみて、ご自身の実感で確かめてみてほしい。私の意見が“偏見に満ちたもの”であるかどうかは、読めばわかるだろう。
書影をダッチ・アングルで撮ってみた。
“悪意がある”ように見えるだろうか?


