【今日のタブチ】『寂しさへの処方箋』と『ネット右翼になった父』――新書2冊が私に突きつけた“分断”の正体

最近、新書にはまっている。
新書は「知の書」とも呼ばれるくらい、知的好奇心の塊だ。
最近読んだ新書のなかから、2冊を紹介したい。

まず1冊目は、平田オリザ著『寂しさへの処方箋 芸術は社会的孤立を救うか』だ。
本学・桜美林大学でも教えていた平田氏は、現在は芸術文化観光専門職大学の学長である。
本書は、1988年~2008年の各所得階層の所得伸び率、いわゆる「エレファントカーブ」を発端に、新興国中間層の所得伸び率が高い理由を読み解いてゆく。その過程で、成長や上昇の実感を失った先進国、とりわけ日本社会に漂う停滞感が浮かび上がり、現代に生きる私たち日本人の「寂しさ」の正体に迫ってゆく
平田氏は、これを日本人に独特の「不満」「いらつき」だと指摘する。物価高や社会情勢による閉塞感。淀みのなかに自分がいる「いらだち」。そこには流れもなく、何も変わらない。そのことへの、いくばくかの寂しさ。でも、我慢できる。生きてはいける。そんな感じ。
そしてこの「寂しさ」を処方してゆくものが、芸術や文化に他ならないと主張する。大きな国家目標を失った日本が、一人ひとりの価値観を大切にする成熟社会への移行するなかで、芸術文化が果たせる役割があるはずだと説く。そのためには、異なる価値観同士をすり合わせる「対話」の能力を身につける、身につけさせることが必要だ。
しかし、我が国の文化予算はGNP比で観ると、先進国平均の4分の1程度、韓国やフランスの10分の1以下だと言われている。しかも、そのほとんどが「文化財保護」に充てられ、先人からの文化を継承し発展させ、そして次世代へと伝えてゆく「文化行政」には使われない
長年、演劇を通じて芸術文化の発展に寄与してきた平田氏ならではの知見が光る良書だ。

そして2冊目は、鈴木大介著『ネット右翼になった父』だ。
本書は、父の死後に右傾化した片鱗を見せつけられた息子である鈴木氏が、「なぜ父は右翼になったのか」を突き詰めてゆくなかで、家族の在り方を見つめ直し、父子の再生を図ってゆく内容である。最初、鈴木氏は、美しかったかつてのニッポンに対する父の「喪失感」を“売ること”を優先したSNSなどの右翼コンテンツによってビジネスに利用されたと解釈する。しかし、徐々にそうではないということに気づいてゆく。そして、そもそも「ネット右翼」とはどういう人を指すのかを探ってゆく。
鈴木氏は、自分自身も「ネット右翼」に対する偏見と先入観、固定観念があったことに気づく。最後に行きつく結論が潔い。
「父をネット右翼にしたのは、僕自身だったのだ」
父の右傾化には、「年代」「世代」という二つの理由がある。しかし、それを「右翼」と決めつけて忌み嫌うイデオロギーによって、父と自分は分断された。そう言い切る。
この結論には賛否両論あるかもしれない。しかし、ネット右翼扱いして放置したことは反省に値する。そう自己評価していることが潔いと感じた。
映画『どうすればよかったのか』も同じだ。家族のなかで生じた価値観のズレや違和感に、真正面から向き合うことを避け、「触れない」「語らない」ことによって、取り返しのつかない分断が生まれてしまう。その構造は、『ネット右翼になった父』で描かれる父子の断絶と重なって見えた。「どうすればよかったのか」と後から問い続けるしかない地点まで来てしまう前に、対話を続けることの難しさと必要性を突きつける作品だった。

「寂しさ」「喪失感」とこれら2冊が表現する言葉は違うが、“古き良き”時代のニッポンとは変わり果てたいまの我が国の姿に、「不満」や「いらつき」を感じない人はいないだろう。そんないま、2冊の新書が改めて教えてくれたのは、対話やコミュニケーションの大切さであった。
家族ですらも「なぜ?」と思ったらとことんと向き合い、議論をすべきだろう。ましてや、他人とは価値観や意見が違って当たり前。偏見や固定観念、常識にとらわれることなく、自らの考え方を「アンラーン(学び壊し)」してゆくことは、これからの日本社会において、ますます重要なテーマになる。
最近、新書にはまっているのは、まさにそうした「自分の前提を揺さぶる問い」に、否応なく向き合わされるからなのかもしれない。

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