【今日のタブチ】お年寄りが声をかけても、スマホゲームをし続ける人の心境――《デジタル依存》と《孤独》が生み出す“殺伐とした”社会
最近、腹立たしい光景を目にした。スマホゲームは個人の自由だ。しかし、公共空間での振る舞いまで自由でいいのか。
今朝の通勤電車。満員の車内にお年寄りが乗り込んできた。「すみません」と声をかけ、奥に進もうとする。しかし、通路を塞ぐ一人の乗客はスマホを凝視したまま微動だにしない。二度目の「すみません」でようやく顔を上げたが、その表情には「邪魔された」という苛立ちがにじむ。ちらりと見えた画面には、オンラインゲームの派手なエフェクトが踊っていた。
この場面に違和感を覚えるのは、単なるマナー違反だからではない。なぜ人は、現実の声よりもスマホの世界を優先するのか。ゲームに没頭することで、他者との接触を避け、ストレスから逃げる心理があるのだろう。だが、その選択が公共空間で他者を排除する行為に変わったとき、自由はどこまで許容されるべきなのか。
スマホは便利だ。だが、便利さが「他人を見ない」習慣を生み、コミュニケーションの回路を断ち切っている。お年寄りの「すみません」は、単なる言葉ではない。そこには「人と人が譲り合う社会」を守ろうとする意思がある。それを無視する瞬間、私たちは何を失っているのか。
この現象は、個人の性格や一時的な無礼だけでは説明できない。背景には、《デジタル依存》と《孤独》の構造がある。スマホの画面は、現実よりも簡単で、予測可能で、報酬が明確だ。ゲームは「勝った」「負けた」という即時の結果を与え、現実の複雑さや不確実性を忘れさせる。だからこそ、人は公共空間でも画面に逃げ込む。そこには、現代社会が抱える深い疲弊が透けて見える。
しかし、公共空間は「個人の自由」だけで成り立つものではない。そこには、他者と共存するための最低限のルールがある。譲り合い、声に応えること。それは古臭い道徳ではなく、社会を維持するためのインフラだ。スマホに没頭するあまり、そのインフラを壊してしまうなら、私たちはどこへ向かうのか。
自由と公共性の境界を、私たちはどこに引くべきなのか。スマホの画面に没入する人の心境を責めるだけでは、問題は解決しない。むしろ、なぜそこまで現実から目を背けたいのか、その理由を問うべきだ。孤独、過剰な競争、終わりのない不安。それらを癒す手段が、スマホゲームしかない社会でいいのか。
お年寄りの「すみません」に応えること。それは単なるマナーではない。人と人がつながる最後の糸を守る行為だ。その糸を切るのは、ゲームではなく、私たち自身の選択だ。
「みんなのためのコンプラポータル」より


