【今日のタブチ】なぜ“1名”でも無期になり得るのか──山上徹也控訴が浮かび上がらせた「量刑の境界線」

今朝のニュースで、安倍元首相銃撃事件山上徹也被告が、一審の「無期懲役」を不服として控訴したことを知った。
あの事件からずいぶん時間が経ったが、今回の控訴は、単なる「刑を軽くしてほしい」という話にとどまらない。私はそう感じている。

まず、事件のあらましを簡単に整理しておく。
2022年7月、奈良市で行われていた選挙応援演説の最中、山上被告は手製の銃を使い、元首相である安倍晋三氏を撃った。安倍氏は搬送先の病院で死亡。
山上被告は起訴された内容を認め、一審・奈良地裁は今年1月21日に無期懲役を言い渡した。
これを不服とし、弁護側は2月4日、大阪高裁に控訴した。

ここで私が気になっているのは、「なぜ無期だったのか」という点だ。
もちろん、殺人という結果をもたらした以上、償わなければならないのは当然だ。一方で、量刑の傾向について見てみると、裁判員裁判が始まって以降、「被害者が1名でも無期懲役が選択された事例」は実際に存在している。 計画性が高い場合や、犯行の危険性が極めて大きい場合など、人数だけで量刑が決まるわけではないという傾向が明確になってきた。 つまり、昔のような“2名が境目”という単純な相場観は、いまは通用しない

では、今回の事件はどうか。
地裁は、山上被告の行為が“極めて公共的な危険を生んだ”点を重視している。人が密集する街頭演説で手製銃を使い、周囲の多数にも危険が及びうる行為で、しかも計画性も高かったと判断している。
さらに、元首相という立場の人間が殺害され、国内外に大きな衝撃を与えた。この「社会的影響」が、検察側の無期求刑の根拠だった。

ただ、ここで私の中に、どうしてもひっかかる疑問がある。
もし標的が安倍氏ではなく、一般の市民だったらどうだったのか。
判決は同じく「無期」になっていたのだろうか

法律上は「被害者の肩書」で刑の重さを変える仕組みになっていない。だが実際には、事件が社会に与える影響、被害者側の感情、世論の反応などが量刑判断に影響し得ることは、研究でも示唆されている
裁判員裁判では、どうしても“社会全体への影響の大きさ”が、心証として重く働きやすい。
その意味で、「人の命に優劣はない」と思いつつも、現実の裁判は“事件の位置づけ”によって刑が重くなることがある
私はそこに、強い違和感が残る。

そして今回の控訴には、2つの大きな意味があると考えている。
まず一つ目だが、山上被告は“宗教2世”として、旧統一教会の問題の只中で育った。不遇な生い立ちが動機形成にどれだけ影響したのかは、一審では十分に評価されなかった。しかし、今、宗教2世が教団を訴える動きが全国で広がり、社会の理解がようやく追いつき始めている。
控訴審では、動機形成への環境要因が、より丁寧に審理される可能性がある
もう一つの意味は、もし「懲役20年」などの有期刑が認められれば、山上被告は社会に戻る可能性が生まれるという点だ。
もちろん、戻るまでには長い時間がかかるだろうし、罪は極めて重い。だが、社会の中で人と関わり、悔い、償い、そして同じような環境で苦しむ人たちの支えになる道が、ゼロではなくなる。これは“再発防止”の視点からも意義が大きい。

私は、事件の重大性を否定するつもりはない。
しかし、私たちが本当に向き合うべきは、「第二の山上徹也」を生まないことだと思っている。背景に何があり、何が彼を追い詰めたのか。そこを見ずに「極悪な犯人」とだけ処理してしまえば、またどこかで同じような悲劇が起こる

控訴審が始まれば、動機・背景・責任能力・環境などが、改めて細かく検討されるはずだ。
そこからこそ、社会が汲み取るべき教訓が見えてくるのだと期待したい。

「TBS NEWS DIG」より

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