【今日のタブチ】エイプリルフールの“本当の意味”を私たちは忘れていないか――「嘘」の本質を取り違える“危うさ”
今年もまた、新聞が見開き2ページを丸ごと使って、「本日の記事はすべてフィクションです」と大々的に宣言する時期がやってきた。各社が知恵を絞って放つ“嘘記事”の数々。日本の労働生産性を低迷させる“長すぎる会議”を強制終了させる謎の装置「はい!おしまい君」だとか、“おやじ”だけを徹底的に保護する「おやじ守る庁」だとか、妙に“あったらいいな”と思わせるネタまである。誰も困らない、誰も傷つかない──そんな嘘なら悪くない。むしろ歓迎したいくらいだ。
とはいえ、そんな記事に笑いながら、ふと我に返ることがある。私たちはエイプリルフールという文化の“そもそもの意味”を忘れていないだろうか。軽く楽しんでいるつもりで、その背後にある歴史や文化的な背景は、案外あやふやなまま放置してしまっている。
エイプリルフールの起源にはいくつも説がある。たとえば16世紀のフランス。3月末から4月1日を新年として祝っていたが、暦が改められて1月1日が新年になった。にもかかわらず旧来の習慣を続ける人がいて、彼らが“からかわれた”ことが始まりだとする説が有名だ。他にも、インドの揶揄節、古代ローマの春祭り、イギリスの歴史行事など、複数の文化の積み重ねがエイプリルフールになったという指摘も多い。“嘘の日”と一言で片づけるには惜しいほど、多層的な歴史がある。
さらに「嘘は午前中だけ」という慣習にも由来がある。イギリスの“オークアップルデー”という行事で、午前中だけ忠誠の印を身に着ける風習があった。それがエイプリルフールの“午前中ルール”に結びついたという説だ。つまり、エイプリルフールは単なる悪ふざけではなく、一定の“節度”と“文化的背景”に裏打ちされた風習だった。
ここで、日本におけるエイプリルフールの成り立ちにも触れておきたい。日本でこの風習が広まったのは大正時代ごろで、当初は外来語ではなく「四月馬鹿」という直訳で受け入れられた。日本では、4月1日はもともと“嘘をつく日”ではなく「不義理の日」とされ、ご無沙汰している相手に挨拶をする日だった。そこへ後から欧米の“エイプリルフール”が流入したため、性質のまったく違う二つの習慣が同じ日付に同居することになった、というわけだ。
では、現在のエイプリルフールはどうか。SNSでは“釣り”が乱舞し、企業アカウントは“バズ狙い”の嘘を出す。もちろん楽しいものも多い。しかし、“人を傷つけない”“不安を煽らない”“最後はネタばらしして笑って終わる”という本来の条件から逸脱した嘘も、簡単に流通するようになってしまった。
そこであえて、エイプリルフールとは決定的に相容れない“悪意ある嘘”をいくつか挙げておきたい。これは笑いの話ではなく、“嘘がどれだけ危険になり得るか”の話だ。
実在の人物の名誉を損なう嘘。「不倫しているらしい」「不正に関わっている」といった根拠のない噂。これは嘘の形をした暴力だ。
また、パニックを煽る嘘。「地震の予兆が専門家から漏れた」「水道水が危険らしい」など、不安を利用した嘘。社会を不安定にするだけだ。
相手の不安につけ込む身近な嘘も悪質だ。「会社が倒産するって聞いた」「辞めることにした」といった、冗談のつもりの嘘。これは笑いではなく混乱を生む。
そして、政治・社会不安を利用するフェイクニュース。「どこかの国が攻撃準備をしている」「選挙で大規模な不正があった」──こういう嘘はもはや遊びですらなく、社会の基盤そのものを揺るがす。
こうした嘘に共通しているのは、相手を驚かせて笑わせるのではなく、“不安”“怒り”“疑い”といった負の感情を利用する点だ。これはエイプリルフールが大切にしてきた“軽やかなユーモア”とは真逆の世界にある。
だからこそ、私は新聞の「はい!おしまい君」や「おやじ守る庁」みたいな、誰も傷つけず、むしろ心をほぐしてくれるような嘘が好きだ。あれは“嘘”というより“遊び心”だ。
そして、一年を通じて散らばる“悪意のある嘘”に触れるたび、エイプリルフールが本来持っていた意味──嘘は、人を傷つけるためではなく、笑いを共有するために使うものだ──という当たり前の原則を、私たちは改めて思い起こすべきではないか。そう、強く感じている。
「TBS NEWS DIG」より


