【今日のタブチ】ミラノ・コルティナで「追悼が政治扱い」になる“理不尽な”ワケ――ウクライナ選手ヘルメット失格は、世界祭典の何を揺るがすのか

ミラノ・コルティナの氷上で起きた出来事は、一人の選手の想いと、五輪が守ろうとする「ルール」との衝突だった。ウクライナのスケルトン代表ウラジスラフ・ヘラスケビッチ選手が、戦死した自国アスリートたちの顔を描いたヘルメットを被って滑ろうとした瞬間、IOCはその“想い”を競技の場から締め出した。

IOCが出した理由はシンプルだ。
「ヘルメットの“内容”ではなく、“どこで表現するか”が問題だ」というもの。
つまり、フィールド・オブ・プレー(競技そのもの)が“政治やメッセージを持ち込まない場所”である限り、たとえ追悼であっても認めない、という姿勢だ。
これを支えているのが、オリンピック憲章の「ルール50」という取り決めだ。そこには“政治的・宗教的・人種的なメッセージは禁止”と書いてあり、さらにIOCがつくった「アスリート表現ガイドライン」で、どこなら発言OKで、どこがNGかが細かく決められている。
記者会見やSNSはOK。でも、競技中のヘルメットやユニフォームにメッセージを載せるのはNG。五輪会場の“空気”を守るため、という理屈だ。
今回もIOCは黒い腕章の着用など妥協案を出したらしいが、ヘラスケビッチ氏は「これは政治じゃない。仲間の顔を隠す理由はない」と突っぱねた。結果、競技の直前に出場資格を失うことになる。
ここで多くの人が抱く違和感は、「追悼まで政治扱いなのか?」という点だ。
しかも、これは今回に始まった話ではない。思い返せば、北京五輪の混合団体では高梨沙羅選手が“スーツ規定違反”で失格になり、日本はメダルを逃した。あのときも「競技ではなく、衣服や装備のルールで勝敗が変わるのか」というモヤモヤが広がった。スケルトンのヘルメットも、ジャンプのスーツも、本人の力とは別のところで人生が変わってしまう。そこに同じ種類の不条理がある。
では、なぜ五輪だけがここまで“場の中立”にこだわるのか。

時代は変わっている。
音楽のビッグステージ、たとえばグラミー賞では、アーティストたちが政治や社会問題を堂々と語り、観客もそれを歓迎している。表現者が、自分のステージを“社会に何かを伝える場”として使うことに、もはや違和感はない
それなのに、スポーツだけが“政治を持ち込むな”という方向だ。同じ公共空間、同じ世界規模の舞台なのに、扱いがあまりに違う。
IOCの言い分はわかる。
世界には200以上の国・地域が参加し、無数の紛争や深刻な問題が存在する。そのすべてが競技中に溢れ出せば、五輪は“何のための場なのか”が崩れてしまう——という考えだ。
でも、その結果として「追悼」や「人権の訴え」まで黙らせることになるなら、果たしてそれは本当に“中立”と呼べるのか。また、そんなことまで規制されてしまうのなら、何のための「世界祭典」なのか。世界中の人間が集まり、それぞれの背景や歴史を背負いながら競い合う。それが五輪のはずだ。だが、あらゆる表現を“政治”の一言でくくって封じてしまえば、その多様性や豊かさはどうやって存在できるのか――この疑問は避けて通れない。

私は、「どんなメッセージでも許すべきだ」と言いたいわけではない。
ヘイト、差別扇動、暴力賛美、国家宣伝、商業広告——これは当然NGだ。しかし、誰かの命を悼む気持ちや、人権を守ろうとする声まで一律に排除する合理性があるのかといえば、正直、説明はつきにくい。
たとえば、“色やサイズ、露出時間を厳格に決めたうえで、追悼や人権メッセージに限っては例外的に認める”といったルールだってつくれるはずだ。
そうすれば、五輪の秩序も守りつつ、アスリートの尊厳や記憶の可視化も両立できる

ヘラスケビッチは「メダルより大事なものがある」と言った。
その言葉には、自分が戦場で失われた仲間を“もう一度、氷の上に並ばせたい”という思いがにじむ。ただ滑りたいだけの男が、国を背負い、仲間の記憶を背負い、そして五輪の巨大な規範とぶつかってしまった。
でも、彼の抵抗は、私たちに重要な問いを投げかけた
追悼は政治か。
もし政治だとしても、それを“消していい”政治なのか。
五輪が守るべき“中立”とは、本当にこの形なのか。

氷上のヘルメットは、一瞬で失格になった。
だが、その大きな問い”は、これから先のオリンピックにずっと残り続けるはずだ。

「産経新聞デジタル」より

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