【今日のタブチ】安倍元総理「無期懲役」判決が示した“3つの違和感”――宗教2世、要人殺害、不遇な生育歴…司法は何を斬り捨てたのか
今日は何といっても、この話題に触れずにはいられない。
2026年1月21日、奈良地裁は、安倍晋三元首相を銃撃・殺害した罪などに問われた山上徹也被告に、検察側の求刑通り「無期懲役」を言い渡した。
どんな事情があっても人を殺める行為は許されない。その前提に立ったうえで、私は3つの点について考えを述べたい。
1.「宗教2世」問題について
判決は、被告の生育歴に“不遇な側面”があったこと自体は認めつつ、犯行に至る意思決定に「大きく影響したとはいえない」と退け、量刑を軽くする事情とは位置づけなかった。
動機の枠内では旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への強い恨みを認定しながら、政治と教団の関係や“宗教2世”という社会問題そのものには踏み込まない姿勢を取った。司法が政策評価を避けるのは通例だが、ここまで社会的議論が高まった事案でも、裁判所の関心は「被告の意思決定」と「犯行の危険性」に収斂された。違和感は拭えない。
2.被害者が「元首相」であることの扱いについて
量刑理由では、白昼の街頭演説中という状況で“要人”を狙い撃ったことの社会的影響・悪質性が強調され、「単独犯の同類型の事件でも最も重い部類」との評価が示された。ここははっきりと考慮されている。
だからこそ疑問が残る。社会的影響を重くみて無期まで引き上げたなら、どの程度まで“元首相であること”を加算要素としたのか、その基準をもう一段可視化できなかったのか。遺族である昭恵氏の深い喪失と区切りの思いは報道でも伝えられたが、司法が社会的影響を量刑にどう具体化したのか、丁寧な説明が必要なのではないか。
3.「不遇な境遇」をどう見るか
この裁判で、弁護側は“宗教的虐待の被害”としての生育歴を量刑上重く考慮すべきだと主張し、検察側は「量刑を大きく軽くするものではない」と対抗した。判決は検察側の立場に沿った。
被告は測量士補や宅建、FPなどの資格を取り、社会で生き延びるルートを模索していたが、家庭の崩壊と献金問題(総額1億円に及ぶとされる)が長年の絶望を増幅させた経緯は、公判で詳細に語られた。ここに「個人の責任」と「社会の責任」の切断面がある。志ある若者を追い込む構造を見過ごせば、同種の事件は再生産される。
判決を読み解く鍵はいくつかある。
第一に、量刑実務の“相場”だ。日本の量刑判断は、犯行の計画性・危険性・動機の悪質性といった要素を軸に、過去の事案との均衡(判例・相場)を踏まえて決まる。本件は「危険で悪質な銃撃」「不特定多数への危険」「強い殺意」を重視して無期に至ったという専門家解説が相次いだ。
第二に、“永山基準”に象徴される死刑選択の枠組みだ。被害者が1名の事案で死刑が選ばれるハードルは高く、社会的影響の大きさがあっても、無期を選ぶ実務の流れがある—この点を背景に、検察も当初から無期を求刑し、裁判所も枠組み内で結論を出したと整理できる。
他方で、社会はこの事件をきっかけに確かに動いた。旧統一教会の被害実態の可視化とともに、解散命令をめぐる司法手続きは進行し(東京地裁の決定、教団側の即時抗告、東京高裁での審理)、被害者救済の制度設計も前進した。判決が量刑上は生育歴を大きく汲まなかったとしても、社会は“宗教2世”の苦難を制度面で受け止め始めた—この二層の動きを混同すべきではない。
私は次の3点を宿題として受け止めたい。
一つ、宗教と政治の関係性をどのレベルまで司法判断に組み込めるのか。少なくとも“動機の背景”としての評価と“政策的評価”の線引きは、今後の社会議論に委ねるしかない。
二つ、要人警護と開かれた民主主義の両立だ。街頭演説の自由と安全の再設計は、判決とは別文脈で、なお続く。
三つ、宗教2世・家族の破綻・過大献金といった複合的リスクに、司法以外のセーフティネットでどう先手を打つか。これは政治と行政、そして私たち市民社会の責務だ。
繰り返すが、殺人は断じて許されない。そのうえで、判決が示したのは、司法が「個の意思決定」と「行為の危険性」を軸に峻別するという原則だ。社会が受け止めるべきは、そこで切り落とされた“構造の問題”を誰がどの制度で拾い上げるのか、という現実だ。判決は、私たちにそう問いかけている。
「読売新聞オンライン」より


