【今日のタブチ】映画『Black Box Diaries』が問う《社会の責任》

映画『Black Box Diaries』を見た。
4日間限定の日本での初公開の初日、初回の上映だった。
映画館は熱気にあふれていた。事件から10年経った今も、この問題に関する世間の関心の高さを再認識した。
監督であり、性被害者の伊藤詩織氏のこころの声が迫ってきた。彼女の涙に共感し、何度も落涙を禁じえなかった。これは「叫び」だと感じた。「助けて!苦しい!!」という魂の叫びだ。そんな声をあげている人を救えないで、何のための社会なのか、何のための法なのかと思った。
ずっと彼女と闘ってきた弁護士が、この映画に異なる見解を示しているが、本当にこの映画をしっかり観たのだろうか、と疑問に感じた。この映画を観て、伊藤氏の痛みが感じられないようなら、どんな人も救えないのではないかと思ってしまう。
たくさんのことを思いながら映画を観たが、よかったのは、“等身大の”伊藤氏が描かれていたことだ。これは編集意図がいいのだと思った。そこには監督の思いもあるだろうが、編集の山崎エマ氏の巧みさだ。普通の日本のドキュメンタリーであるならば、「被害者=悲痛な顔をしている者」というイメージで絵を選び、編集するだろう。だが、山崎氏はそうしなかった。笑ったり、喜んだり……「被害者」のステレオタイプなイメージを見事に打ち壊した。民事訴訟に勝ったあとの車内での歓喜のシーンは、痛快だ。
伊藤氏のHPの以下の言葉に注目したい。

「映画には、サバイバーとしては本当は入れたくなかった場面もあります。娘として、母には見せたくない場面もあります。編集当初は、ジャーナリストの視点から『自分だけの主観で語っていいのか』と何度も躊躇し、できるだけ多角的な視点を意識して、加害者側である山口氏へのインタビューも検討しました。 けれど、他のジャーナリストや監督が、自分自身のストーリーを紡いでいる素晴らしいドキュメンタリー作品に出会い、『自分の言葉で語ってもいいのだ』と背中を押されました。」(HPより)

映画の中で、伊藤氏が父親の言葉を話しシーンがこころに残っている。「父としては民事裁判に賛成しない。やめろと言いたい。やめて幸せな平凡な生活をしてほしい」というような内容だったかと思うが、同じ父親としてその気持ちが痛いほど理解できた。だが、伊藤氏は闘った。そのことに拍手喝采を贈りたい。
HPにはこう記されている。

「この作品には、そのすべてを経験した『ひとりの人』として向き合い、監督として臨みました。ジャーナリストとしての報道ではなく、当事者である私が、自分の物語を引き受けて編み直したドキュメンタリーです。」(HPより)

これは、今日の舞台挨拶でも伊藤氏が述べていたことだ。
しかし、私はそうは思わない。
ジャーナリストとは「事実を突き止める者」「真実と向き合う者」だとすれば、今回の伊藤氏の映画は“本当の自分”をブラックボックスのなかから見つけ出す、まさに“ジャーナリスティックな”作業に他ならない。そういった意味でも、伊藤詩織氏は一流のジャーナリストなのだ。

この作品は、性暴力という個人の問題を超えて、社会のあり方を問うドキュメンタリーだ。私たちはこの「叫び」にどう応えるのか、その答えを試されている。なぜ公開までこれほど時間がかかったのか、なぜ日本ではわずか4日間しか上映されないのか――そんな疑問もまた、私たちが向き合うべき「社会の責任」の一部なのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です