【今日のタブチ】灘中入試という「国語の問題」に、大人たちが不合格だった日

全国有数の進学校として知られる神戸市の私立・灘中学校の今年度入試問題が、サイトやSNSで賛否を呼んでいる。

灘中は兵庫県神戸市にある私立男子中高一貫校で、いわゆる「超難関校」の一つとされる。特徴的なのは、社会科の入試が存在しない点だ。ただしそれは、社会を軽視しているという意味ではない。むしろ灘中は長年、国語の問題文の中に社会的・時事的要素を織り込み、「世の中を素材として読む力」を問う姿勢を貫いてきた学校である。

今回、議論の的となったのは、その国語の試験で、パレスチナの惨状を描いた詩を題材とした読解問題が出されたことだ。問題文には「2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩です」という説明が添えられ、パレスチナ人詩人ムスアブ・アブトーハー氏の「おうちってなに?」、米国在住のパレスチナ系詩人ゼイナ・アッザーム氏の「おなまえ かいて」という二編の日本語訳が掲載された。

灘中の教頭は取材に対し、「本校の試験科目には社会がない。だからといって社会を勉強しなくてよいわけではなく、社会的な問題についても日々ニュースや新聞に目を向け、関心を持ってほしい」「政治信条を問うものではなく、あくまで読解力を問う問題だ」と説明したという。
これに対しネットでは、「灘中ならではの深い問題だ」と評価する声がある一方、「特定の立場に寄った政治的プロパガンダだ」「入試に出すべきではない」という批判も噴出した。イスラム思想研究者の飯山陽氏も、「出題自体は問題ない」としながら、「仮に異なる立場の意見を書いたら不正解になる可能性があり、立場によって解釈が分かれる題材は入試に不向きだ」と指摘している。

だが本当にそうだろうか。

まず確認しておきたいのは、灘中の出題の「系譜」だ。灘中は過去にも、知識の暗記とは無縁の問題を数多く出してきた。理科では「イカの絵を描きなさい。目はどこにありますか」という設問を出し、図鑑的知識ではなく、観察経験を問うた。別の年には「透明な氷と白い氷の違いを説明せよ」「人はなぜ影を見ることができるのか」といった、日常の当たり前を疑わせる出題を行っている。国語でも哲学的随筆、社会問題を扱う文章が繰り返し使われてきた。

今回の問題も、その延長線上にある。思想を注入するための「主張型設問」ではなく、言葉をどう読み取るかを見る「読解型設問」だ。灘中OBが口をそろえて「単なる読解問題だ」と反論しているのも、その文脈を知っているからだろう。私もこの見方に同意する。

ここで一つ、仮想実験をしてみたい。
もし題材が、ロシア兵側の詩だったらどうだっただろうか。あるいは、原爆を投下する側の視点で書かれた文章だったら。果たして同じように「プロパガンダだ」という声は上がっただろうか。おそらく問題視のされ方は、まったく違ったはずだ。結局のところ、少なからぬ批判は、「入試に政治的題材が出た」ことそのものよりも、「自分が不快に感じる現実を見せられた」ことに向けられているようにも見える。

視野を海外に広げれば、こうした題材が入試に使われることは決して珍しくない。
フランス・バカロレア(高校卒業時に全国一斉で行われる大学進学資格試験)の哲学試験では、移民、戦争、正義、不平等といったテーマが長年扱われてきた。アメリカのSATやAP試験(大学進学や単位認定に用いられる全国共通試験)でも、人種差別や難民、環境問題を扱った文章はごく普通に出題される。日本国内でも、開成や麻布では、原発事故、震災、貧困、権力とメディアを扱う文章が過去に何度も使われている。

入試問題が社会的テーマを扱っているからといって、「どちらが正しいか」という価値判断を答えさせているわけではない。読解問題で評価されるのは、本文に即して内容を理解し、論理を追えているかどうかであり、受験生の政治的立場ではない。採点基準の詳細は外部にはわからないが、「社会に関心を持つ子どもを取りたい」という学校の姿勢を、即座にプロパガンダと断じるのは短絡的だ。

私が今回のこの騒動を観て、むしろ興味深かったのは、今回の問題文そのものより、それに過剰反応する大人たちの姿である。滑稽としか言いようがない。
もしこの試験を「受験生の選別」ではなく、「大人を採点するテスト」だと仮定したらどうだろう。問題文を読まずに怒り、背景を確認せずに断定し、SNSで断罪する。提出された“答案”の多くが、読解力不足と感情的判断に満ちているようにも見える。

日本では「入試は価値中立でなければならない」「入試は無菌室であるべきだ」という幻想が根強い。しかし教育とは本来、価値から逃げられない営みだ。何を題材に選ぶか、その時点ですでに価値判断が介在している。世界で起きている出来事を完全に排除した入試など、最初から存在しない。

では、灘中が本当に恐れているものは何か。
戦争でも政治でもない。おそらく彼らが最も危惧しているのは、「考えない優等生」が量産される未来だろう。点は取れるが、現実には目を向けない。世界で何が起きていても、自分は関係ないと思える感性。その方が、教育としてははるかに危うい。

今回の出題は、「正しい答え」を押し付けるものではない。「見ないふりをしない力」「言葉の背後にある現実に想像力を及ぼす力」を試したにすぎない。それに不快感を覚える人が多いなら、問題は灘中の入試ではなく、私たち大人の側にある。

そしてそのこと自体が、この問題文が「よくできた国語の問題」だった証拠でもある。

「ABEMA TIMES」より

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