【今日のタブチ】“米7合”は演出だった――『ナイトスクープ』謝罪が浮かび上がらせた編集のほころびと、子どもに向けられた「まだ大人になるなよ」という一言の重み
1月23日に放送された『探偵!ナイトスクープ』の「6人兄妹の長男を代わって」をめぐって、番組側が二度にわたり説明と謝罪を出した。
オンエアでは、小学6年の長男の依頼を受け、霜降り明星・せいや氏が“1日長男”を代行し、最後に母親の「米炊いて、7合!」という声が流れた。このラストが“現実告発”のように響き、SNS上で「ヤングケアラーでは」「児相(児童相談所)案件では」という反応が一気に広がった流れは、すでに多くの人が目にしている通りだ。
炎上の初期段階で、朝日放送テレビは25日に「取材対象者や家族への誹謗中傷、詮索や接触は控えてほしい」との声明を出し、TVerの見逃し配信を停止した。だが空気は収まらず、翌26日、番組は二度目の説明で「父親が乳幼児を残して外出する場面」と「米7合」のくだりは“編集・構成上の演出”であり、依頼文の一部も放送用に構成・改稿していたと明らかにした。ここで初めて“あの場面の正体”が明らかになった。
報道は一斉に「誤解を招く演出への謝罪」と伝えた。さらに、同局には電話・メールでの意見が殺到したこと、番組は当面通常放送と説明していることが報じられている。地元選出の政治家が行政機関と共有し、教育委員会を含め対応すると発信した事実も、事態の広がりを物語っている。
番組側は、家事・育児の基本担当は父親で、長男ばかりが担っている印象になった点を反省し、長男には週3~4回バスケットの時間もあると補足している。だが、視聴者が“放送で見たもの”と“後出しの説明”のギャップを強く感じたのは間違いない。あのラストカットを“ドキュメントの結論”として受け取った人は少なくないし、依頼文の改稿が明示されたことで、演出と“捏造”の境界に対する不信が一段と高まったのも当然だ。
私は、ドキュメンタリーとニュースは別物だと考えている。ニュースは事実そのものを伝える営みだが、ドキュメンタリーは作り手の主義や主張がにじむことがある。構成や演出が作品に表情を与えるのは自然なことだ。ただし、大前提として「嘘をつかない」という線引きは揺るがない。今回、番組側は“普段は家事や育児を担っている父親を、あえて乳幼児を残して外出させた”と説明したが、これは主義や思想による編集ではなく、事実とは異なる状況を作り出しただけの“捏造”である。こうした線引きを、作り手は改めて肝に銘じる必要がある。
今回の違和感の核心は二つに尽きる。
ひとつは、ミスリーディングな編集が“生活実態の提示”として視聴者に届いてしまったことだ。ラストの「米7合」は、家庭の日常を象徴する“決定的ショット”として受け止められた。演出であればあるほど、映像の強度は高まり、誤解も増幅する。演出の告白が、むしろ「ではどこまでが編集で、どこからが現実だったのか」という議論を引き起こしてしまった。
もうひとつは、子どもの権利への配慮が弱かったことだ。ヤングケアラーは、遊ぶ・学ぶ時間や心身の負担が損なわれやすい現代的な課題だが、本編はそこを啓発の入口に変換せず、笑いと感動の“オチ”として回収してしまった。結果として、「良い話で閉じたけれど、何も変わっていない」というもどかしさを残した。
副作用も大きかった。出演家族は一般の人々で、放送直後からSNSアカウントの特定と中傷が拡大し、児相通報を示唆する投稿まで出る事態になった。局は早い段階で二次被害の抑止を呼びかけたが、初動で“なぜその表現になったのか”“どう誤解を避けるべきだったのか”まで踏み込めなかった分、炎上のエネルギーは逆流しやすかった。
歴史的な文脈で言えば、この番組には“VTRに最後の刃を入れる”良心としての局長がいた時代がある。上岡龍太郎氏がスタジオで本気で叱り、安易な逃げやふざけた作りに牙を剥いたエピソードは、いまもファンの記憶に残っている。今回の件で、その最終審級の機能が弱まっていないかという指摘が出るのは自然だと思う。
これから必要なのは、三つの整理だと考えている。
第一に、演出表示の明確化と、実態の切り出し方に関するガイドラインの再整備。
第二に、子どもに関わる取材・編集の手順(リスク評価、第三者チェック、オンエア前後の二次被害抑止策)を番組横断で共有すること。
第三に、今回のプロセスを第三者の目で検証し、学習可能な知見として公開することだ。事の性質上、BPOの場での議論に発展してもおかしくはない。
それでも、私が最後に拾っておきたいのは、せいやが長男に抱きかかえるように言った一言だ。
「お前はまだ小学生や。まだ大人になんなよ」
この言葉は、編集や演出の如何にかかわらず、核心に触れていると感じる。今回、演出の設計がその重みを自ら薄めてしまった分、番組はもう一度“子どもを物語の部品にしない”という原点に立ち返る必要がある。
『ナイトスクープ』は、人の暮らしの細部に潜り込み、笑いの向こうで人の輪郭を浮かび上がらせてきた。だからこそ、ここでのつまずきは大きい。だが、傷の大きさは、立て直しの真剣さでしか埋められない。演出の技術に甘えず、視聴者の現実認識を裏切らない作法で、次の一本を作るしかない。今回の謝罪の“その後”が番組の再出発になるのかどうか、私は見届けたい。
「Yahoo!ニュース」より


