【今日のタブチ】追悼・久米宏氏――『ザ・ベストテン』『ニュースステーション』が示したテレビの“ハプニング性”

フリーアナウンサーの久米宏氏が亡くなった。私は一緒に仕事をしたことがないが、テレビが大きな転換期を迎えているいまのタイミングでの久米氏の死去は、「ひとつの時代が終わった」ような気がしている。そういった意味では、私にとって久米氏は「フリーアナウンサー」というより「テレビ人」だ。
私が中学生だったころ、『ザ・ベストテン』は全盛期だった。誰もがこの番組を見て、次の日の学校で話題にしたものだ。「昨日の沢田研二のパラシュート見た?すげーよな」とか「『勝手にシンドバッド』の歌詞を「ノイロー~ゼ」と変えるなんてビックリ!」とか逸話の宝庫だった。久米氏が黒柳徹子氏の突っ込みにうろたえる姿や、歌手がミラーになった登場口から現れないアクシデント(いま考えれば、「出来レース」や「演出」なのだろうが、当時の純粋な私たちはこれも事実だと信じ切っていた)をうまく取り繕う久米氏の機転に感心していたものだった。
特に久米氏の言葉で印象に残っているのは、「テレビの本質やいいところは、次に何が起こるかどうかわからないというハプニング性」というものだ。これこそまさに、私が常々指摘している、テレビが配信よりも優位である点だ。久米氏が『ザ・ベストテン』という歌番組と全く違うジャンルと思えるニュースに進出したのも、その考えからだ。ニュースこそ同時性、即時性があり、“テレビ的”と言えよう。だからこそ、久米氏は『ニュースステーション』にエンタメ性が必要だと考えたのだ。その考え方は正しい。『ニュースステーション』は、ニュースに音楽や映像演出を取り入れ、報道番組の概念を変えた。
テレビに関する言葉で私が嫌いなものが2つある。
ひとつは「やらせ」。演出意図や演出的な仕掛けもすべて「あ、やらせね」と批判する。演出を「やらせ」と一括りにする風潮があるが、演出は嘘ではない。言うならば「やらせ」ではなく「捏造」と呼ぶべきだ。「捏造」は嘘であり、演出は「やらせ」ではない。
と同時に、「オワコン」という言葉も好きではない。テレビが「オワコン」と呼ばれるようになって久しい。だが、私はテレビを「オワコン」だとは思わない。テレビはまだ終わっていない。テレビのリアルタイム性、何でもありの「玉手箱」や「びっくり箱」のような何が起こるかわからない期待感。いい意味での「裏切り」を、テレビは提示できる可能性がある
そんなことを、画面を通じて久米氏に教わった気がする。ご冥福を祈りたい。
いま、テレビが生き残るための「鍵」となる“ハプニング性”。久米氏はそのことを半世紀も前に見抜いていたのだ。

「東京新聞デジタル」より

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