【今日のタブチ】Netflix『ラヴ上等』が放つ“時代への反逆”――恋リアはあの事件以降、どう変わったのか?

Netflix『ラヴ上等』(全10話)を観た。
元暴走族、元ヤクザ、少年院出身など、社会の“はみ出しもの”として生きてきた男女11人が、山奥の「羅武上等学園」で14日間の共同生活を送りながら、本気の恋と向き合う――そんな、日本初の“ヤンキー恋愛リアリティショー”だという。企画はMEGUMI氏。実際、配信直後から国内1位・世界8位になるほどの反響を得た作品らしい。

正直、観る前は気が重かった。1999〜2009年にフジテレビで放送された『あいのり(通称:ラブワゴン)』の焼き直しかと思ったし、同じくフジテレビ/Netflix制作の『テラスハウス』(2012〜2019)の痛ましい一件もあって、あの“事件以降の恋リア”という文脈が頭を離れず、このジャンルに再び向き合うのに二の足を踏んでいた。

ところが、観始めると一気見だった。一言で言えば「よくできている」。企画の強度、キャスティング、演出、構成。その全部が噛み合っていた。観ているうちに、出演者たちが皆、わが子のような年代(最年長30歳)であることもあり、自然と“応援する気持ち”が湧いてきた。だが、私がこれほど没入したのは、このコンテンツを単なる恋愛リアリティ番組としてではなく、まったく別の次元の“時代の物語”として観ていたからだ。

それは、ある種の“時代の回顧”としての番組だ。
一昔前のヒューマンドキュメンタリーや紀行番組には「自分探し」という一本軸があった。しかし多様化した今、その概念はほぼ死語となり、人の価値観や生き方は“一括りにできない”ものになった。にもかかわらず『ラヴ上等』は、その古い一語を――恥ずかしげもなく、それも“社会から逸脱した”過去を持つ人々によって――今の時代に持ち込んでいる。
そこには、「逸脱とは何か?」「かつての“自分探し”は本当は何だったのか?」という逆説的な問いが潜んでいる。だからこそ視聴者はこの番組にどこか懐かしさを感じ、同時に出演者たちに純粋な共感を覚えるのだろう。

視聴中ずっと思っていたのは、元ヤンと言われる人々の“おとなしさ”“行儀の良さ”だ。自分の若い頃のほうが、はるかにガツガツしていたし、もっと無遠慮だった。
むしろ対面でのコミュニケーションさえ難しくなった現代において、彼らのほうがよほど“覚悟”を持って言葉を発しているように見えた。飾らない、奥ゆかしい、だが一貫して筋が通っている。その姿に、逆説的な清潔さと強さを感じた。
そして、彼らを観ながら思った。「恋愛って、いいものなんだな」と。それは、忘れていた感覚だった。いい歳になってから、こう思い直せるとは思わなかった。生きてゆく意味や勇気を、若者たちに思いがけずもらった気がする。

以上に述べたように、よくできていた作品だと思う。しかし私が書くブログなので、いくつか苦言も呈しておきたい。

1.子ども食堂のエピソードは“逃げ”になってしまった
確かに「子ども」は強力なコンテンツだ。観る者の情緒を大きく動かせる。元ヤンたちの別の側面を見せる目的も理解できるし、彼らの幼少期と重ねる演出的な意図も分かる。だが、それだけにこの要素が“カモフラージュ”になった印象も否めない。恋愛にまっすぐ向かう姿が、少し霞んだ。
私は、「子ども」という要素には頼ってほしくなかった

2.10話は長すぎた
8話、あるいは7話でも十分だったのではないか。子ども食堂のパートを削れば、ちょうどそのくらいに収まるはずだ。
私は地上波で仕事をしていた頃、“制限”の中で表現することを常に意識していた。決められた尺の中にすべてを詰め込む緊張感。それが作品にリズムを与えていた。
配信はその逆だ。制限がないため、むしろ“回数を増やす方向”に働きがちになる。この構造自体が見直されるべきではないかという意味も含め、この点を指摘しておきたい。

3.最終回の告白シーンに時代性と創造性がない
「告白がある」と聞いたとき、まさか男性→女性の一方向ではないよな、と思ったが、そのままだった。これでは、『ねるとん』の焼き直しだ。しかも“男が告白する側”という前時代的な設定で、正直がっかりした。
ここには現代の恋愛観やジェンダーバランスを踏まえた、もっと大胆な演出が必要だったはずだ。

苦言は以上だが、それでも私は、この作品を総じて“よくできていた”と感じている。
出演者たちの魅力、それを最大限引き出した作り手たちの力量、そして企画者であるMEGUMI氏の慧眼。
そのすべてに敬意を表したい。

「Netflix」公式HPより

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